広開の長行に及ぶ所以は、百界千如一念三千の法門、その義を尽くさんがためなり。しかりといえども、略開の時、一念三千その義なしと言うにはあらず、(中略)真の一念三千を説き顕す故に、広開に至って本尊の功徳を顕すなり。
第7章は、勤行等の富士門流の修行に対しする日守の疑難に対し破折を加えている章で、63節は「方便品」「寿量品」の読誦の当門流の「所破」の義を批判する日守を、日寛上人の『当流行事抄』の法義を使って破折しているのですが、私が得心したのは「そもそも正行とは、これ本門の本尊なり。」の日応上人の御指南です。正行というと「題目」のことだと思っていたのですが日応上人は「本門の本尊」だというのです。その訳は日寛上人が、「若し正境に非ざれば縦い偽妄無けれども亦種と成らず」と御指南されているように、正しい「境(本尊)」が無ければ、正しい行になりません。だから正行の根本は本門の本尊になるのです。故に日寛上人も、「正行とは三世諸仏の出世の本懐、法華経二十八品の最要、本門寿量の肝心、文底秘沈の大法、本地難思、境智冥合、久遠元初の自受用身の当体、事の一念三千、無作本有の南無妙法蓮華経是れなり。」(当流行事抄)言われているのです。創価や顕正の唱題は「誤行」なのです。さて今回取り上げた御文は「方便品』読誦についての御指南です。日応上人の時代は、日蓮正宗は勤行の際に、現在読んでいる十如是の後に続く、方便品の長行も読誦していました。その理由として、「十如是」(略開三顕一)に一念三千の義はあるけど、その続きの広開三顕一の文を読んで本尊の功徳を顕すと言われていて、これは日寛上人の「問う、今当門流或は但十如を誦し、或は広開長行を誦す。其の謂われ如何。答う、十如の文既に是れ一念三千の出処なり。故に但之れを誦すれば其の義則ち足りぬ、然りと雖も略開は正開顕に非ず、故に一念三千猶未だ明了ならず、故に広開に至るなり。」(当流行事抄)の御指南を日応上人が述べている部分です。現在は方便品の広開の長行は読まずに、十如是の略開までの勤行形式になっています。そのことに対して、「今の正宗の勤行は日寛上人の御指南を守っていない」などと創価や離脱僧・アンチ正宗がイチャモンをつけてきますが、勤行は化儀であり、化儀は時の法主上人が時節を鑑みて制定するのです。これまでも、日興遺誡と日有上人の化儀抄では変わっている化儀もあるし、その化義抄の中にも現在では行われない化儀もあります。ですから、方便品の広開の長行を読まないからと言って日寛上人を否定していることにはなりません。そもそも、日寛上人は「十如の文既に是れ一念三千の出処なり。故に但之れを誦すれば其の義則ち足りぬ」と十如是の文の略開の部分までも其の義(一念三千)は足りていると言われてます(不足とは言われていない)。方便品を読むと分かりますが方便品の広開の長行は非常に長く、この部分を読むと勤行の時間は現在の3倍くらいかかると思います。そこで法主上人が化法に違わない範囲で十如是読誦に短縮したことは何の問題もありません。化儀の変更は他宗派でもやっています。それなのに日蓮正宗だけインチキと批判するのは、為にする批判にすぎず、しかも日蓮正宗についてほぼ学んでいないのにも関わらず知ったぶって批判してくる姿は、聞いててこっちが恥ずかしくなるレベルです。特に勤行もしない無信心の門外漢が一宗派の勤を批判するのは、創価学会員以上に「どうかしている人」ですね。
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