信者当に知るべし、釈尊既に爾なり、蓮師もまた然なり。我等正見ならば、蓮祖の弟子なり。若し信行退転せば則ち三界に流転して、また吾が祖をして五百塵点劫に疲労を生ぜしめんか。能く思い、能く勤めよ。応に信行を励むべし。一生空しく過して万劫に悔ゆることなかれ云云。(御書文段P138下)
今回は開目抄文段からの御指南です。これは『開目抄下』の【諸仏・釈迦如来の分身等】の御文に対する文段です。当該御指南の前段には薬師仏・阿弥陀仏の分身仏は全て五百塵点劫釈尊の弟子である。と言われています。爾前迹門の時までは分身仏と釈尊は同等ですが本門寿量品において釈尊の本地である五百塵点劫が説かれた後は分身仏は全て釈尊の弟子となるのです。分身仏が現れるのは何故かというと十方世界に釈尊の結縁の衆生がいるからであり、これだけ多くの結縁の衆生がいることが五百塵点劫に釈尊が下種をした証拠ですから分身仏は釈尊の所化(結縁の衆生)を教化するために出現しているですから分身仏及びその所化は全て釈尊の弟子という事になります。薬師仏や阿弥陀仏を師とすることは本門寿量が説かれるまでの間だけ(当分)の事であり本門寿量品が説かれた後にも、薬師や阿弥陀を師(仏)とすることは釈尊に敵対する行為になってしまうわけです。それを踏まえて見れば本未有善の末法の衆生は本因下種三宝である日蓮大聖人の弟子ですから釈迦仏を師とすることは間違っていますし、当然阿弥陀や薬師仏は師となりません。いかに況や池田大作に師事することは大聖人を下す大謗法の行為です。よく創価員は「池田先生と学会に信心を教えてもらった」というけど、確かにそれはそうかも知れません。私も創価がなければ大聖人の仏法と縁できなかかったかも知れない。しかしそれは信心を知る前の話です。いうならば爾前迹門の時です。その時は池田を師匠と思っても仕方ないでしょう。しかし大聖人の仏法を知り戒壇大御本尊を知った後は根本の師匠は日蓮大聖人なのです。池田や創価は大聖人の仏法を知るまでの当分(仮の)の師なのです。それなのにいつまでも池田を師と仰いでいるのは、阿弥陀仏を仏と立てる念仏等の人々・宗派と変わりません。つまりは謗法ということです。さて、行学は人によって違いますが大聖人の弟子として一番大切な事は「退転しない」ということです。「退転」の捉え方も様々ですが、朝晩の勤行を毎日できなくても唱題が少ししか上げられなくても、寺院になかなか参詣できなくても、とにかく戒壇大御本尊を信じることをやめないことです。そこさえ失わなければ自ずと行は進んでいくものです。創価から正宗に移籍した人は戒壇大御本尊に対する信を失わなかったら大御本尊の許に戻れたのです。逆に創価は池田以下全員が退転したのです。退転してしまったら三悪道を流転し御本仏・大聖人の心を痛めることになります。大聖人の弟子・信徒を名乗るのであれば御本仏を悩ましていけません。まずは自分の出来る範囲でいいから信行に励み御本仏・日蓮大聖人に安心してもらえる信心をしたいものです。御本仏が安心してくれる信心をすれば一生成仏は間違いありませんからね。
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