創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

創価教学じゃない御書講義(2023年11月座談会御書・寂日房御書)

かかる者の弟子檀那とならん人人は宿縁ふかしと思うて日蓮と同じく法華経を弘むべきなり、法華経の行者といはれぬる事はや不祥なりまぬかれがたき身なり

今月の座談会御書の御文は以前一度やった御文なので前回とやや重複するので下に前回の講義を参考までにリンクしておいた。さて創価教学だと冒頭の「かかる者」即ち日蓮大聖人の事を「法華経の行者」或いは「上行菩薩」であると講義するのが大半だ。しかしその説明は確かに間違いではないが正解でもない。何故なら「法華経の行者」「上行菩薩」という表現はあくまでも大聖人の外用の姿であり迹の姿の説明にすぎないからだ。大聖人が御本仏であることを表に講義してこそ正しい御書講義になるのだが、大聖人の内証・本地は御本仏であるということを裏に回し外用を表にして強調するのが創価教学の特徴だ。そこを指摘して私は創価教学をインチキ教学と称している。そのインチキ創価教学が【大聖人=御本仏】を強調しないのには理由がある。それは大聖人が御本仏であることを強調すると池田と大聖人を同格にできないからだ。さすがの池田でも御本仏にはなれない。池田を本仏に格上げできないから逆に大聖人の外用の姿を利用して大聖人を御本仏から凡夫にまで引き下げるわけだ。大聖人を「法華経の行者」「地涌の菩薩」と説明すれば池田を大聖人と同格にすることが可能になるわけだ。池田を大聖人と同格と会員に思わせ洗脳するのか創価教学の目的なのである。(もちろんその先も見据えて池田を大聖人と同格にしようとしている)。しかし本文の「かかる者」というのは紛れもなく御本仏・日蓮大聖人の事だ。この大聖人だけが下種の法体を所持される御本仏であり一切衆生の本従の師なのである。そして御本仏の色心二法の当体である戒壇大御本尊は正しく生身の大聖人なのである。この本従の師を教えることが当御文の一番のキモである。そして本文で仰せのかかる者の弟子檀那とはこの戒壇大御本尊を受持する僧俗の事であって大御本尊(本従の師)を棄てた創価学会員は「かかる者(大聖人)」の弟子檀那ではない。創価員が「師匠は池田先生」「池田先生の弟子」と自己申告しているのが何よりの証拠である。そんなインチキ創価教学だからこの御文の講義も大聖人からいつの間にか離れて「師弟不二の闘争」とかにすり替わっていく。当然学会員のいう師匠とは大聖人ではなく池田大作であるから「池田大作と同じ信心」という話になってしまい大聖人は何処にもいなくなるわけだ。そんなインチキ講義などすることも聞くことも無意味である。そもそも御書は大聖人が弟子檀那に与えられたのであって池田や池田の弟子に与えられてはいない。池田は本人曰く戸田城聖の弟子だそうだが、戸田の指導に反して大御本尊を棄てたのだから今は戸田の弟子でも大聖人の弟子でもない。従って池田には師匠はいない。かといって自解仏乗の者でもない。言うならば物怪の存在が池田である。その池田の弟子たちも同様に物怪である。であるから学会員は日蓮と同じくしていないのである。折伏・弘教して自分と同じように法華経を広めよと本文で大聖人が仰せなのに創価は選挙ばかりやってる。大聖人が政治的活動をした史実はないし政治活動をせよとの御指南もない。自分勝手に大聖人の仏法を解釈して好き勝手な事をしておきながら大聖人の弟子檀那と思うなど烏滸がましいにも程がある。日蓮直結?そんな寝言は死んでから言い給え。本従の師である大聖人を蔑ろにして、「師匠は池田先生」「池田先生の弟子」なんて言っている学会員は、あたかも大聖人の弟子でありながら天台沙門を名乗った五老僧と全く同じである。いや、天台大師ならまだしも大謗法者の池田大作の弟子を名乗るとは五老僧以下の虚け者といえよう。もはや学会員は大謗法者と言われることをまのがれない身なのである。しかも死んでしまえば池田大作との縁も切れ各自たった一人でアソコに堕ちる。もちろんそれは自業自得だが、あまりにも不憫であるから一日も早く本従の師である戒壇大御本尊の許へ戻り御本仏の弟子檀那となることを勧めている。それ以外に、地涌の菩薩になる道も法華経の行者になる資格はない。当然、成仏する道理もないのである。

■過去記事はこちら▶創価教学じゃない御書講義(30年303月座談会御書・寂日房御書) - 創価ダメだしブログ

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