かかる者の弟子檀那とならん人人は宿縁ふかしと思うて日蓮と同じく法華経を弘むべきなり、
法華経の行者といはれぬる事はや不祥なりまぬかれがたき身なり
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今月の座談会御書は「寂日房御書」です。
創価御書には、「与寂日房日家」と記されていますが、正宗版御書にはその記述はありません。
正宗では「日家」と「日華」は同一人物と判断されたようでその文言は削除されました。
正宗と別れた創価では「御書」を改正することができない。悲しい事です。
因みに、「日家」と「日華」別人説は、身延の説です。
まぁ、そうはいっても今の学会員は御書を使わないのであまり関係ないでしょう。
今月の座談会にもまた、講義する方も聞く方も
「大白蓮華」だけ持って、御書を持って行かないんでしょ?
創価活動家の教学が身延並みに低下しているのも頷けます。
さて、今回の一節は創価風に講義すると
日蓮大聖人の弟子とは現代では創価の三大会長であり三代会長に連なる学会員である。
みたいな事を言っちゃうわけでしょ?(笑)
なんでしょうね。その無理矢理こじつけた理論は?
それが通用するなら、「大聖人の弟子とは浅井センセとそれに連なる顕正会員である」
これでも通用するってことです。違いますか?
残念ですが、創価も顕正もどちらも大聖人の弟子ではありません。
本文には「かかる者の」とあります。もちろん大聖人のことでですが
では大聖人とはどんな者なのか?ということです。
前文には
◆日蓮となのる事自解仏乗とも云いつべし
とご自身のことを呼ばれています。
「自解仏乗」とは「妙密上人御消息」に
◆聖人と申すは師無くして我と覚れる人なり、(中略)道場にして自解仏乗し給いぬ又聖人なり
とあるように、久遠元初のご本仏であります。
そしてこのご本仏とは
◆本尊とは法華経の行者の一身の当体なり(御義口伝巻下)
とあるように、現代においては「戒壇大御本尊」のことです。
つまり、「かかる者の弟子旦那となる」というのは
「戒壇大御本尊」に「信」をとる人達であって
「大御本尊」を捨てた大作センセとそれに連なる学会員は大聖人弟子ではなく
自分達だって「私は池田先生の弟子である」
「池田先生は永遠の師匠である」といっているでしょう。
「永遠」とは三世のことですから、そう言っている学会員は
大聖人の弟子ではありません。
大聖人の弟子ではないので「法華経の行者」でもありません。
「池田教の行者」です。
なのに、このような御書を座談会で取り上げるのは何も知らない会員さんに
「大聖人の弟子檀那である」とウソを吹き込む詐欺行為です。
大聖人は「一谷入道御書」で
◆日蓮が弟子となのるとも日蓮が判を持ざらん者をば御用いあるべからず
と言われています。
「判」とは「太鼓判」というように、要するに大聖人の認可ということです。
この大聖人の認可というのは「唯授一人血脈」のことです。
創価は「神秘的な血脈」とかいいますがでそれは、大聖人から日興上人への血脈相承を否定それはする行為です。
五老僧も大聖人の判を持っている。というならばそれは日興上人否定でです。
また「唯授一人血脈相承」というのは「大御本尊」とは別物ではなく一体です。
だからこそ、「血脈相承」を否定した創価は大御本尊を捨てざるを得なかったわけです。
創価のコピー本尊には「大聖人の判」はありません。
浄圓寺 の認可を得ただけです。
本来であれば浄圓寺 は正宗を離脱するときに返納しなければならない本尊が
いまの創価がコピーしている日寛上人書写の本尊です。
盗人が盗人の本尊をコピーしているわけですね。
なので大作センセや原田君達がいくら自分たちは大聖人の弟子と名乗っても
大聖人に認められていないインチキ集団なわけです。
いいんですよ。キミ達は「大作の弟子」で十分満足なんでしょ?
大聖人の弟子檀那なんて見栄張らないでください。
さて逆に創価に属していようと大御本尊に信をとる心があれば立派な大聖人の弟子です。
宿縁とは「在在諸仏土常与師倶生」ということです。
大御本尊の元に生まれても退転する創価とは違います。
そのような人を大聖人は
◆設い又在在諸仏土常与師倶生の人なりとも三周の声聞の如く下種の後に退大取小して五道六道に沈輪し給いしが成仏の期来至して順次に得脱せしむべきゆへにや、念仏真言等の邪法邪師を捨てて日蓮が弟子となり給うらん有り難き事なり。(最蓮房御返事)
と愛でられてくださっています。
私事ですが先日初めて大御本尊様にお目どうりした時に
心から「在在諸仏土常与師倶生」の宿縁を感じました。
大作よりも大聖人を
凡夫よりも本仏を信仰したいそこの学会員さん
早く大御本尊様への「信心」を取り戻してください。
創価幹部・活動家のウソに騙されないでください。
そのための「創価教学じゃない御書講義」です。