創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

信仰体験が不幸の原因になる

創価内ではよく「信仰体験がないと確信が持てない」と言われるが、私は別にそうは思わない。体験の有無と信仰への確信とはそれほど関係ないと思っている。数々の功徳の体験をもつ多くの旧日蓮正宗創価学会員がその功徳体験の根本と信じていた戒壇大御本尊を棄てて平気で創価員を続けているし中には戒壇大御本尊を軽んじめる会員もいることを見ても彼等の信仰体験が大聖人仏法への確信に繋がらなかったことを証明している。それでも相変わらず「体験が命」とばかりに他人にとってはどうでもいいような体験を発表したりする創価員も多い。なんども言うが訊いてもいないのに自分からペラペラと話す人間の体験談は凡庸で退屈な話が多い。これは創価に限らず世間一般的も同じで自分語りする人間の話は大概はつまらない。特に年寄りの自分語りはみっともない。高田純次は年を取ってからやってはいけない事として、「説教・昔話・自慢話」の3つを挙げているが創価の壮年・婦人部にはこの手の話が多い人がたくさんいる。信仰体験というのは信仰をする上で重要なファクターではあるがそれは同時に信仰による不幸の原因にもなる。創価や顕正、統一や幸福の科学天理教やエホバ等々の新興集団体に嵌まり財産や時間を奪われる人達の多くは「信仰体験」がその信仰に嵌まる理由になっている。「こんなスゴイ体験(利益)がでたのだからこの信仰は正しい」という思考になるわけだ。天台大師は『摩訶止観』のなかで、「見は発(おこ)る事を明かせば、あるいは禅に因(よ)り、あるいは聞に因る。」と言説している。「見」とは邪見のことであり「邪見」とは因果の道理を無視した考えをいう。因果律を無視すれば不幸になるというが仏法の基本的な教えである。そうした「邪見」が起こる原因は、「仏法の話を聞いたり」(聞)あるいは、「禅の修行」によるものだと天台大師は言われている。「禅」によって邪見が起こるのは「禅」によってもたらされた結果(功徳)、つまり信仰体験が邪見の原因になるという。更に天台大師は「聞」よりも「禅」(信仰体験)が原因となって邪見が起こる方が多いとも言われており信仰体験こそが邪見の大きな原因であると結論している。そうならない為には信仰によってもたらされた結果を教義に照らし合わせる作業が不可欠である。だから天台教学は「教観双資」といって教義と体験の双方が揃うことを大前提として重視している。当然、大聖人の仏法も同様である。◆文理無くんば、大慢あにこれに過ぎんや(土木殿御返事)との御聖訓に照らせば文理で説明できないような体験は単なる自慢・大慢にしか過ぎない。単なる自慢ならまだしも天台大師が指摘しているようにその思考は自他共に不幸になる原因になる。こう書くと創価民は反論してくるが御託を並べてるだけで創価信仰に功徳(利益)がるという理論的論証は一切できないのだから創価信仰とは壺を買ったり、エルカンターレという架空の仏を信じれば幸福になるという類のカルト系信仰と批判されもしかたないだろう。そんなカルト系新宗教創価日蓮大聖人仏法の正統である大石寺を批判するのだから冗談にも程がある。まぁ大聖人に無縁の新宗教信徒の嫉妬なのだろうが、あまりにも「現証」を強調し過ぎた為に10年以上も人前に姿を現わすことができない池田大作を「お元気」と言わざるをえず自分達の首を絞める羽目になっている。ともあれ信仰に体験は付き物ではあるが、その体験だけで信仰の正邪を判断するのは不幸の道に入り込むだけである。何事も道理に合わないことをするのは失敗の元だ。創価信仰には仏の教え(文証)も道理(理証)もないし文証・理証で言えば創価は大聖人仏法の視点で言えば大謗法である。いまだに創価に在籍する会員は自身の信仰体験に拘って邪見に陥り不幸の因を積んでいるのである。我見・邪見は本当に恐ろしい。『蓮盛抄』に曰く、◆涅槃経に云わく「願って心の師と作って心を師とせざれ」云々。愚癡・無慙の心をもって「即心即仏」と立つ。あに「いまだ得ざるを得たりと謂い、いまだ証せざるを証せりと謂えり」の人にあらずや。

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