創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

根拠なき創価信仰の功徳。

ブログやSNSで「功徳」という話をしている創価民を見かけますよね。まぁ「功徳」とか「罰」とかは主観的な要素なので別にそれはそれで何とも思わないのですが、「功徳」の話から創価をやめた人たちは不幸にな人生だ。とか正宗・法華講員に向かって「お前たちには功徳がない」と変な上から目線で言ってくる創価民がいます。そうなると「ちょっと待てよ」って話になります。この手の創価民のロジックは「創価の信仰で自分は功徳がでて幸せになった。だから法華講員や創価をやめた人間は不幸である」というものですね。こんな短絡的な妄想を真顔で言っているのがいい年齢したオッサンとかでそういう発言を聞いていると不幸な人だなと思うのは私だけではないと思います。創価系ブログの「創価の森」の管理人氏が「退会して幸せになった体験書いてみろよ」と息巻いているようですが普通の人間は自身の人生の幸不幸なんて自慢気に語ったりしません。ましてやネット上なら尚更です。私も多少自身の体験談を過去に書いたことはありますが全てを書いたわけではありません。むしろ書いていない内容の方が濃いのですがそこには触れていません。何故なら「功徳」という主観的な事象で仏法の正邪を判断してはいけないからです。

◆但し法門をもて邪正をただすべし利根と通力とにはよるべからず(唱法華題目抄)

◆先ず通力ある者を信ぜば外道天魔を信ずべきか(題目弥陀名号勝劣事)

との大聖人の御妙判に則せば、仏法の正邪を決めるのはあくまでも「文証」「理証」であって「功徳」や「想像」といった無根拠の事柄は「利根と通力」の話であり天魔外道の主張になるからです。では創価民のいう「創価信仰の功徳」に根拠は有るのかといえば「根拠はない」のです。そもそも、仏法の法門法義の話をせずに「功徳」「現証」の話しかしない時点で、それは仏法的根拠のある話ではなく天魔外道の与太話なのです。「創価信仰の功徳」の話をする創価民は押しなべて「何故創価の信仰に功徳が出るのか?」について明確に回答できる人はいません。それもそのはずで今の創価の教義は矛盾と自語相違に満ちていて理論的に最初から破綻しているからです。多少、教学がある振りをしている創価民は一応屁理屈を言ってきますが少し突っ込めばすぐにそのインチキ教義は馬脚を現します。大石寺や大御本尊を否定しながら、大石寺の大御本尊を大石寺の歴代法主を書写した本尊に向かって拝んでいるのに何で「功徳」が出るのか?その一点だけでも既にとんでもない自己矛盾なんですね。それでいて「創価信仰に功徳がある」なんて誰が信じると言うのか?さらに大聖人の御書に「創価信仰に功徳がある」なんてどこにも書いていないわけです。では「文証」も「理証」もないのに何故創価信仰でも「功徳」のような事が起こるのかというと、

◆現在に一分のしるしある様なりとも天地の知る程の祈とは成る可からず魔王魔民等守護を加えて法に験の有様なりとも終には其の身も檀那も安穏なる可からず(諌暁八幡抄)

と御書で説明されているように、魔王や魔民が仏に敵対する勢力を維持するために「功徳」と勘違いするようなことを起こすわけです。これを「魔の通力」といいます。つまり創価民がいう「功徳」なんてインチキだということです。その証拠に池田大作の指導に次のようなものがあります。池田氏は祈りが叶わない理由について

▼インチキな祈りをしているか、インチキな決意をしているか、インチキな行動をしているか、そのどれかだよ

▼ご本尊様というのは、何だかんだと自分からは遠い存在なんだよ。だからご本尊様と自分の間に師弟を入れるんだよ

などという「インチキ指導」をしてるそうです(創価森管理人がこの指導を引用しています)祈りが叶わないのは池田のいうような理由でなく、「インチキな本尊」に「インチキな修行」をしているから祈りが叶わないのです。いつも書きますが「祈りを叶える力」は「御本尊」に備わるのであって「唱題(祈り)」に備わるのではありません。そもそも0分勤行のインチキ祈祷師・池田大作がどの面下げてこんな指導をしているのか見てみたいものです。さらにふざけて居るのが2番目の指導ですね。【ご本尊様というのは、何だかんだと自分からは遠い存在なんだよ】ってバカなの?感じです。御本尊が衆生から遠い存在である。なんて一体大聖人がいつそんなことを言いましたか?全く真逆でしょう。御本尊が自分とは遠いといいながら自分の中に本尊があるっていうのは明らかに矛盾してます。また「御本尊と自分の間に師弟つまり池田を入れろ」なんて狂っているとしか思えない。これも大聖人仏法を否定するインチキ指導です。確かに正宗においては法主上人猊下やご住職は「師匠方」です。でもそれは自分と御本尊の間にご僧侶を入れるのとは違います。師弟子がともに御本尊に祈っていくということなのです。師であるご僧侶は「仏界」であり弟子である信徒は「九界」で師弟がともに祈る姿に事の一念三千、つまり大聖人仏法の功徳があるのです。こんなインチキ創価指導を真に受けていたら祈りは叶わずやがて無間地獄なのです。仏法は因果を説きます。根拠なき功徳は「因なき果」です。「因なき果」とは外道の教えなのです。外道の教えで幸福になることはないのです。せいぜいその時だけの「喜び」があるだけで永遠性も普遍性もありません。学会員さんの中で今本当に悩んでいて真剣に唱題し活動しているのに祈りが叶わないと言う人がいると思います。ハッキリ言います。創価信仰では祈りは【絶対に叶いません】。早く信仰の寸心を改めて実情の一善である戒壇大御本尊様の許に戻ってください。魔民・創価活動家の「インチキ功徳与太話」に騙されてはいけませんよ。


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