創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

現証にはすぎずとは(元創価班20期さんの質問への回答)

今日は、元創価班20期さんからの以下の質問に答えたみたいと思います。

●『三三藏祈雨事』(874p)日蓮仏法をこゝろみるに、道理と証文とにはすぎず。又道理証文よりも現証にはすぎず。

の御書で反論してくると思いますが管理人さんならどのように破折されますか。

この御文は昔は文理ガン無視の顕正会員が良く使ってましたが今では創価顕正会並みのレベルになったようで元広宣部の私としては情けない限りです。この御文は「文証」「理証」「現証」の三証を示されている御文ですね。この三証とは当該御文に日蓮仏法をこゝろみるに】と書かれているように大聖人が定めた仏法勝劣の基準です。三証が全て揃っている仏法が「勝」であり「正」であるという事です。さてこの御文の創価の通解は日蓮が仏法の勝劣を判断するのに、道理と証文とに過ぎるものはない。さらに道理・証文よりも現証に勝れるものはない】こうです。この通解だけ読んでもこの御文が「文理を無視した現証が重要である」なんて言われていません。そして本抄のこの後の御文を読んでみてください。三人の三蔵は祈雨の祈祷をしましたが全員「雨を降らすことに成功」しているんですよ。つまり「雨を降らす」という現証がでている。ただその後暴風雨になった。対して天台・伝教は完璧に祈雨のが成功しています。同じ「雨を降らす」という現証がでいているのにこの差は何かといえば、三三蔵の祈りは仏法の道理(理証)に反した祈りだったのに対し天台・伝教は仏法の道理に即した祈りだったということです。仏法の道理に即すというのは仏典(文証)に即しているといことです。ですから理証・文証のない現証とは三三蔵が降らせた雨のように後に災いとなって帰ってるのです。文理が揃わない「創価の功徳」とは三三蔵が降らせた雨のようなものなのです。その場は雨が降ったと大喜びしていますがその後には必ず災いが降りかかってきます。文理のない功徳は功徳ではなく通力であり必ず後に災いになると創価民にはそう言ってあげてください。では、大聖人は何故「現証が一番重要である」とご指南されたのかというとまずは化法に則していえば末法においては大聖人仏法以外に本当の現証が出ないからです。

◆されば正法には教行証の三つ倶に兼備せり、像法には教行のみ有って証無し、今末法に入りては教のみ有つて行証無く在世結縁の者一人も無し(教行証御書)

と書かれているように末法において釈迦仏法は「教」(文証)だけあって行(理証)と証(現証)はありません。「教行証」が揃わなければ衆生を成仏させることはできないわけです。末法で「教行証」とは三大秘法即一大秘法の戒壇大御本尊であり大聖人仏法です。その証明としての現証の重要性を説いているわけです。そして「教」(文証)も「行」(理証)もすべては成仏という現証へ導くための手段ですから成仏すること(現証)が一番大切であると言われているわけです。もちろん成仏の条件は「教・行」ですから文理から離れた成仏(功徳)などはないのです。次に化義の面から言うと、

◆現在に眼前の証拠あらんずる人此の経を説かん時は信ずる人もありやせん(法蓮抄)

と御書に書かれていますが、「文証」「理証」というのはある程度の仏法的知識がなければ理解できないものです。特に鎌倉時代の庶民であれば今の時代と違って読み書きもできない人も多かったでしょうし仏法の法義を聞く機会も少なく理解できる人も少なかったと思われるます。(現代でも仏法の法門法義に疎い人はたくさんいますが)そうした人々を折伏していく時には難しい「文証」「理証」を説明するよりも見てすぐ分かる「現証」が一番効果的なのです。そして鎌倉時代においては「南無妙法蓮華経」の題目を唱えることは即ご本仏日蓮大聖人を信仰することであり、それ自体が「文理」に即した信仰なのです。このように化法・化義の面から大聖人は「現証には過ぎず」と仰せになったわけです。この御文を引用してくる学会員には何故大聖人が「文証に過ぎず」とご指南されたのか質問するとともに、創価本尊に題目をあげると何故功徳が出るのか?を質問するのがいいでしょう。「トンデモ回答」が帰ってきて笑えます。私の経験上だと「自分の中の仏界を湧現するから」という答えが一番多かったですね。で、私は「そういうことを聞いているのでなく自分の中の仏界を湧現するというそのプロセスを聞いているんですよ。」と聞き直します。するとあら不思議。創価民は何一つ答えたれないんですよ(笑)そして最初に戻って「全ては現証です」と無限ループに突入します。創価民対策としては全般的に言えるのは「無限ループ話法」と「論点スリカエ話法」そして「答えたフリ話法」に誤魔化されないことです。彼等にはそれしかできませんからね。いくらでも破折なんてできるので安心して破折してください。ただし油断はしてはダメですよ。

◆師子王は前三後一と申してありの子を取らんとするにも又たけきものを取らんとする時もいきをひを出す事はただをなじき事なり(経王殿御返事)


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