過日、創価時代からの付き合いのある後輩と話した。現在は消極的活動家(財務・新聞・選挙要員)という状態らしい。創価が大御本尊を捨てたことも良く分かっていなかったので(創価本部は大御本尊を捨てたことを会員に徹底していないよな)説明して創価を辞めるように勧めたが返ってきた返事が「自分は池田先生が大好きで大聖人より池田先生が好き」という言葉だった。ぶっちゃけ二の句が告げない位唖然とした。彼には男子部時代に教学の話をたくさんしてきたので彼なら分かっていると思っていたのだが「池田先生が大好きだから創価を辞めない」なんて言うとは想定外すぎた。でも冷静に考えてみれば彼のような2世・3世の創価民となると幼少期から親からそういう教育を受けてきたのだろう。幼少のころから池田センセと触れ合って可愛がられていたならいざ知らず、ほぼ会ったことのない人間を大好きになる感覚は俺のような創価と関係のない家庭で育った人間には理解できない。多分池田センセが好きっていうのはリアルじゃないんだろうな。彼の中の池田センセはアイドルと同じで「池田センセはうんこはしない」レベルの大好きなんだろうな。まぁ誰かを大好きになる気持ちは分かるし悪い事ではない。多分俺も例え自分の大好きな人が「犯罪者」になっても「好き」という気持ちは変わらないだろう。それが「好き」ということだからね。でも「好き」ということと「犯罪」とは別物なんだよな。いくら好きでもその人が犯した犯罪は正しいということにはならない。いやむしろ相手の事が本当に好きならば犯した罪を反省させ更生させるのが本当に愛情だと思うけどな。とはいえ池田センセを直接更生させることなどできないのだから彼に限らず池田センセの事が大好きなら尚更大御本尊の元に戻り自分自身が成仏し池田センセの事を祈って更生させるのが本物の弟子だと思うのだがどうだろうか?
◆自身仏にならずしては父母をだにもすくいがたしいわうや他人をや(盂蘭盆御書)
◆よき弟子をもつときんば師弟仏果にいたりあしき弟子をたくはひぬれば師弟地獄にをつといへり(華果成就御書)
そもそも、仏法というのは「好き嫌い」で選ぶものではない。あくまでも「正邪・高低・浅深」で選ぶものだろう。また「人」ではなく「法」なんだよ。彼には昔何度もそう言って聞かせたのだが「池田先生が大聖人より好き」だったらしい。全く残念な話だ。もっとも今の創価活動民はほとんどがこのタイプなんだろうと思う。創価が謗法だろうと正宗が正しかろうとそんなことは関係ない。だからいくら文理を尽くして創価の謗法を説明しても聞く耳をもたない。また理論的に正宗を批判しているような創価民もその根本は「好き嫌い」の域を出ないのだろう。池田センセと創価が大好きだからそれをイジメる日顕宗は許さない。っていうのレベルの話なんだろうと思う。こうなると最早、仏法でも何でもない「好き嫌い」の自分の感情論でしかない。そうなると文証も理証も通用しない。多くの創価民が文理を無視した功徳等の現証論に逃げ込むのはそういうことなんだろう。折角日蓮大聖人の仏法の存在を知ったのに自分の感情を優先させて謗法を重ねるとはつくづく不幸だ。創価や池田センセを嫌いになれというこではない。好き嫌いの感情を抜きにして仏法の正邪で判断し大御本尊を捨てることが「正か邪か」よくよく考えてみたらどうだろうか。それにしても「池田センセ大好き」後輩もなんとかしないといけないなぁ。次に会った時はガツンと折伏しようっと。「信心は好き嫌いじゃね~よ」ってね。