古刹信徒さんから、創価の大聖人直結の邪義を破折するコメントをいただいた。
非常に勉強になるし、素晴らしい内容です。
特に文証として、日興上人の「佐渡国法華講衆御返事」の引用は素晴らしいの一言。
●案のごとく聖人の御後も末の弟子共が、誰は聖人の直の御弟子と申やから多く候。これらの人は謗法にて候也
と言われているとおり、大聖人直結なとど言うのは謗法である。
また、この御文の前文には
●この法門は、師弟子をたゞして仏になり候。師弟子だにも違い候へば、同じ法華を持ちまいらせて候へども無間地獄に堕ち候也
とも書かれている。
これだけ読んでも大聖人直結などという、池田創価教学がいかに邪義であるかわかるというものだ。
日興上人が直結信心を明確に否定しているのだから。
それとも、大聖人直結なのだから、日興上人の言葉は用いないのか?
え?どうなの?
釈迦も、天台も、伝教も全て一人相承をしていることでわかるように、
唯授一人相承とは仏法相承の基本なのである。
大聖人だけが、上記三人と違う相承をする道理はないし、違った相承をしたという形跡もない。
日興上人のいう「師弟子を正す」というのは、
この唯授一人血脈相承に信を置くということに他ならない。
創価のなかの師弟論などとは全く異なる。
仏法上の師弟義と世法(凡夫同志の)の師弟論を同レベルで語るのは無知というものだ。
そもそも、大聖人直結信心が正しいのなら
なんていう会則は邪義じゃないか。
直結なら、三代会長を指導者とする必要はないし
むしろ永遠の指導者にしたら直結じゃなくなっちゃうだろ。
日興上人すら飛び越していいのだから
三代会長なんて何の存在価値もない。
そんなもん永遠の指導者にしたらば直結じゃなくなっちゃうじゃないか。
違うのか?
池田センセは、大聖人直結について
○「御本尊に、また御本仏・日蓮大聖人に直結しゆく時こそ、功徳の泉が無限に涌き出ずることを、確信していただきたい。また僧侶をはじめすべての仏法の指導者は人々を[自分に]でなく、[御本仏に]直結すように導くのが使命である。それが御書の仰せである」
と指導している。
自分と会員を師弟であるなどといい、また永遠の指導者などと会員に半ば強制するような池田センセは、
完全に会員を【自分に】つけているのだし
その池田センセに【つく】ように指導している、創価の活動家・幹部も同類だ。
つまり、池田センセと不快な仲間たちは仏法の指導者としての資格はないし
自ら言う「大聖人直結」を否定しているというわけだ。
俺も男子部時代に御本尊直結の祈り。という話を部員さんにしたが
それは、いまの幹部がいうような内容ではなかった。
あくまでも、祈りとは「大御本尊と自分」の一体一で
自分とご本尊の間には誰も入れないということだ。
誰も自分自身の悩みを解決してくれるわけではない。
自分一人の信力と行力でしか、仏力・法力を引き出すことはできない。
そうした意味では、御本尊と自分は直結であり
自分の信と行で道を切り開いていくのが本当に意味での大聖人直結信心というのだと思う。
ところが学会活動家の祈りってのは
「池田センセにお応えするためこうしますから悩みを解決してください」とか
「池田センセをお守りするので願いを叶えてください」的な祈り方をしている人が多い。
誓願の題目なんて幹部に言われてそんな感じで祈ちゃってるんだろうけど
いやいや、ここは「大聖人直結」でしょ?
池田センセのためとか学会のためとかソレいらないよね?
池田センセも創価も今や大聖人とは何の関係もない・・・
いや、大聖人の仏敵だもん
そんな人達の為とか祈ってたら、叶う願いも叶わない。
学会員の皆さん。
いいですか?
祈る時こそ大聖人(大御本尊)直結ですよ。
池田センセや創価のことなど思わなくていいのです。
それが、本当の大聖人直結信心というのです。
一人血脈を否定するのが直結信心ではありません。
むしろそれを否定したら大聖人と永遠に結ばれないのですよ。