◆衆生と云うも仏と云うも亦此くの如し迷う時は衆生と名け悟る時をば仏と名けたり、譬えば闇鏡も磨きぬれば玉と見ゆるが如し、只今も一念無明の迷心は磨かざる鏡なり是を磨かば必ず法性真如の明鏡と成るべし、深く信心を発して日夜朝暮に又懈らず磨くべし何様にしてか磨くべき只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを是をみがくとは云うなり。
(3月度座談会御書・一生成仏抄)
今月の御書は「一生成仏抄」だね。
この御書は短い御書だけど、一生成仏(生きてる間に幸せになる)する方途が書かれている重要な御書だよ。
俺たちが大聖人の信心をするのは「生きている間に幸せになる」というのが目的だからね。
まず、大前提として一生成仏は法華経の教えじゃないと叶わない。
爾前・迹門の教えでは、何度も生まれ変わって徐々に成仏するとか
死んでから極楽浄土や浄瑠璃世界に行って成仏するとか説かれてるんだけど
そんなの待ってられないし、やってられないよね。
ところがどっこい法華経の教えでは、一生成仏(または即身成仏)ができちゃう。
一体何故かと言うと、法華経では十界互具・一念三千が説かれたからから。
冒頭の
◆夫れ無始の生死を留めて此の度決定して無上菩提を証せんと思はばすべからく衆生本有の妙理を観ずべし
この部分の妙理ってのは、自身の生命の中に仏界が存在する。つまり人界所具の仏界がある。十界互具の法理説明。
それを受けて
◆但し妙法蓮華経と唱へ持つと云うとも若し己心の外に法ありと思はば全く妙法にあらず
と言われてます。
今回の範囲じゃないけど、一生成仏抄を拝読する上でこの部分が非常に重要なので書いておくね。
幹部・活動家は上記の御文を引用して、「我々こそ仏である」とか
「妙法蓮華経は自分自身の中にしかない」とか指導しまよね。
いわゆる創価の好きな「凡夫本仏論」「生命本尊論」ですね。
しかし、これは全くの間違いです。
なぜならば、この一生成仏抄で説かれている一念三千の法門は「理の一念三千」だからです。
一往・総じて・理に訳せば、我が己心も南無妙法蓮華経である。と書いてあるわけです。
この一生成仏抄は立宗宣言まもなく書かれた御書で
この時点ではまだ大聖人は、本懐である本尊義を説かれていませんから
一応、権実相対の上から諸法実相の理の一念三千に約して、
衆生の己心に本有の妙理が備わるという「理」をご教授されているわけです。
ですから、この御書の御教示のままでは実際に一生成仏は叶わない。
(大聖人御在世ならばいいのでしょうが、今は無理)
事実の上で一生成仏するわけだから、事の一念三千の当体を受持しないと。
また、我々末法の衆生は理の一念三千(釈迦・天台仏法)では成仏できません。
で、事の一念三千とはどこにあるかと言えば、御本仏大聖人が所持されているわけですね。
大御本尊として顕わし残してくれたわけです。
(実際には残したのでなく大御本尊とは大聖人様なんだけど)
◆三大秘法其の体如何、答て云く予が己心の大事之に如かず汝が志無二なれば少し之を云わん寿量品に建立する所の本尊は五百塵点の当初より以来此土有縁深厚本有無作三身の教主釈尊是れなり、(三大秘法禀承事)
◆日蓮が己心の仏界を此の文に依つて顕はすなり、其の故は寿量品の事の一念三千の三大秘法を成就せる事此の経文なり秘す可し秘す可し(義浄房御書)
などの御聖訓にあるように、一生成仏の根本である事の一念三千の御本尊とは大聖人の己心(心法)なわけです。
その御本仏(仏界所具の仏界)の己心に対して信をとるから、我々の仏界も涌現するわけだね。
◆我が己心の妙法蓮華経を本尊とあがめ奉りて我が己心中の仏性南無妙法蓮華経とよびよばれて顕れ給う処を仏とは云うなり
(法華初心成仏抄)
で、そこを抑えて前半部分の
◆但し妙法蓮華経と唱へ持つと云うとも若し己心の外に法ありと思はば全く妙法にあらず
という御文だけど、ここでいう己心とは、御本仏・日蓮大聖人の己心を指しているわけ。
間違っても、自分が本仏とか自分が本尊なんて勘違いしちゃダメだよ。ここ重要。
さて、大聖人の己心とは大御本尊であるから、
この御文は「大御本尊の他に仏法があると思ったら妙法じゃない。一生成仏できない」
このように読む。
ここが分からないのが今の創価だね。
前置きが長くなっちゃったけど、それを念頭に今回の研鑽箇所を解説すると
ポイントはふたつまずは
◆衆生と云うも仏と云うも亦此くの如し迷う時は衆生と名け悟る時をば仏と名けたり
ここね。
ここはね、迷う時とはつまり大御本尊に不信を抱いた時で、
悟る時とは大御本尊に信を取った時。という事で
大御本尊を信じられない状態を衆生と名ずけ
大御本尊を信じる状態を仏と言う。と大聖人が言われている部分だね。
では、大御本尊を信じるにはどうするのか?ってのが次で
◆深く信心を発して日夜朝暮に又懈らず磨くべし何様にしてか磨くべき只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを是をみがくとは云うなり。
深く信心を発してというのは、大御本尊に対して信心を発するってこと。
つまり日々の本門の題目の実践が一生成仏の方法であると言う事。
本門の題目とは、
●本門の題目には必ず信行を具す、所謂但本門の本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うるを本門の題目と名づくるなり(文底秘沈抄)
と、日寛上人がご指南されているように、大御本尊に信を取って題目をあげる。とい事だね。
結論として、大御本尊を信受しない。などという創価の教義を是としている学会員さんが
いくら題目上げようとも、一生成仏など出来ない。不可能ってことなんだよ。
気付こうよ。いい加減。