創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

創価教学じゃない御書講義(2022年2月座談会御書・一生成仏抄)

衆生と云うも仏と云うも亦此くの如し迷う時は衆生と名け悟る時をば仏と名けたり、譬えば闇鏡も磨きぬれば玉と見ゆるが如し、只今も一念無明の迷心は磨かざる鏡なり是を磨かば必ず法性真如の明鏡と成るべし、深く信心を発して日夜朝暮に又懈らず磨くべし何様にしてか磨くべき只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを是をみがくとは云うなり。

今月の座談会御書はまたしても上記の一生成仏抄で早くも3度目です。しかも前回はこの御文を取り上げてからまだ1年余り。8000円もする池田版御書を会員に買わせておいて本当にふざけてますよね。とりあえず過去2回分の記事を下にリンクしておきます。

創価教学じゃない御書講義(2020年10月座談会御書・一生成仏抄)

創価教学じゃない御書講義(3月度座談会御書・一生成仏抄)

さて、3度目なので今回は何を書こうかなって考えた末に、【只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを是をみがくとは云うなり】の部分を深掘りすることにします。今回の御文では日蓮大聖人は衆生の生命を指して「鏡」に譬えられています。「闇鏡」とは謗法・罪業で汚れた不浄なる我が生命の事であり、この謗法・罪業を磨けば本来の清浄である仏界(明鏡)が現れるという事でこの磨く作業は【只南無妙法蓮華経と唱へたてまつる】ことだと言われているのです。この御文で見逃してはいけないのは南無妙法蓮華経を、「唱える」だけではなく「奉る」ということです。「奉る」というのは、「差し上げる」「申し上げる」という意味です。自分自身に対して「奉る」という言葉は使いませんから、「奉る」相手は御本仏・日蓮大聖人=戒壇の大御本尊様です。創価時代に「題目を上げる」の「上げる」という言葉は数や時間といった「数量を上げる(下げる)」という感覚で使っていました。でも法華講さんの「題目を申し上げる」という言葉を聞いて「上げる」というのそういうことかと気づかせてもらい以降は「題目を申し上げる」というようにしています。創価時代は私を含め誰もそんな風に言いませんでしたからね。ただ単に「題目あげる」としかいいませんでした。話を戻します。仏界を湧現させるには今言ったように題目を「唱える」・「奉る」という二つの作業が必要になります。もちろん2つの作業は通常は御本尊に向かい唱題する中に同時に含まれているのですが創価の場合は戒壇大御本尊を受持していないので、「奉る」作業がありません。これでは仏界湧現はしないのです。磨く作業は唱題(信力・行力)ですが磨く力があるのは戒壇大御本尊(仏力・法力)だからです。多くの創価民が勘違いしているのは、唱題(題目を唱えること)に力があると思っていることです。唱題をすれば自分の中の仏界が湧現すると思っているは大きな間違いなのです。

◆三因仏性は有りと雖も善知識の縁に値わざれば悟らず知らず顕れず善知識の縁に値えば必ず顕るるが故に縁と云うなり(三世諸仏総勘文教相廃立)

◆善智識と申すは日蓮等の類の事なり、惣じて知識に於て重重之れ有り、外護の知識同行の知識実相の知識是なり、所詮実相の知識とは所謂南無妙法蓮華経是なり、(御講聞書)

と御妙判にあるように戒壇大御本尊=法体に縁しなければ衆生の生命は明鏡としての仏界を顕すことはできません。ダイヤモンドはダイヤモンドでしか磨けないように謗法を除き仏界を磨くのは絶対的仏界である戒壇大御本尊(分身散体の正しい本尊含む)以外にありません。恐れ多いですが例えるなら御本尊は鏡を磨く布の働きをしているという事です。ただ唱題するだけでは何も持たず素手で鏡を磨いているようなものです。ましてや創価イカサマ本尊掛け軸に題目を上げているのは汚れてボロボロの臭い布で鏡を磨いているようなもので、そんな布で磨けば磨くほど生命の鏡は益々謗法で汚れて臭くなっていくのです。正しく清浄な布である戒壇大御本尊で磨いてこそわが心は法性真如の明鏡となるのです。今の創価では仏界を磨くための清浄たる仏界の布(曼荼羅本尊)を手にいれることは出来ません。そこで創価民のみなさんに言いたいのは大謗法の地獄界の布(創価イカサマ掛け軸)はもう捨てて戒壇大御本尊の許に戻り己心の鏡を磨き本来の法性真如の明鏡を取りもどし欲しいということです。

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