今日は正宗から池田創価が破門されて30年目の記念日だそうだ。「魂の独立記念日」らしい。「破門された」と言ってみたり「独立した」と言ってみたり一体どっちやねん!(笑)といつも思う。それにしても時の流れは早いね。私は平成2年11月7日に日蓮正宗創価学会に入新入会した。最初はたまに本幹に連れて行かれる程度で聖教新聞もとっていない「なんちゃって会員」だったけど夕方のニュースで創価が正宗から破門されたと知った時は多少は驚いた。あれからもう30年もたったんだね。「魂の独立」をして創価がこの30年やってきたことを振り返ると、御観念文を御祈念文と言い換え日目上人の名前を御祈念文から削除し「池田大作」への報恩感謝を祈念文に追加し、修行の基本である御座三座の勤行を方便品・自我偈の1座の簡易勤行にして、ついには7年前に大聖人仏法の根本である戒壇大御本尊を捨て去ったという蛮行を繰り返してきた歴史がある。「魂の独立」などどカッコつけているけど結局は池田創価が自分達の好き勝手な信心をしたかったというだけ。いうならば謗法の地頭・波木井実長(日円)のような者が創価学会員であり、その者たちを誑かして謗法者にした張本人の池田大作は民部阿闍梨日向のような者だね。戒壇大御本尊を捨てるだけならまだしも身延さながら大御本尊を後世の作だと言ってみたり自分達に都合の悪い御書(特に相承関連の御書)を偽書だと言ってみたり、なるほど今の創価は身延日蓮宗と教義がそっくりで最初から身延の信徒団体ではないかと見間違うほどだ。日円は自分の好き勝手な信心をしたかった。日向は日興上人より自分のことを尊敬してもらいたかった。まさに創価民と池田そのものであると感じている。そんな感じでこの30年が経過したが、池田創価は「魂の独立」後に世間に認知され社会的な地位が向上したのか?と言えば全くそんな兆しもない。むしろ日蓮正宗という伝統的な仏教教団から破門されたことにより創価は戦後生まれの怪しい新興宗教団体というイメージが強くなっただけだろう。肝心の弘教も方もさっぱりと進まず組織は弱体化の一途をたどっている。現役創価活動家がどんなに虚勢を張ってみても先日は女子部が消滅しているし組織の統合も進んでいるし何よりも青年部の活動家が激減しているのは事実である。もちろん信徒数の公式発表は827万世帯でこの30年間全く増減していない。しかも既に創価民の中でさえ御本尊に仏力・法力はないという会員まで出現している。30年前の破門当時は戒壇大御本尊を否定する学会員などいなかった。むしろ「河辺メモ」を持ち出し日顕上人を「戒壇大御本尊をニセモノ呼ばわりした謗法者」と責めていたくらいだ。それがどうだ。いまや戒壇大御本尊をニセモノ呼ばわりしているのは当の創価民の方だ。さらに頼みの綱の公明党の比例得票は破門直後に池田大作が目標として掲げた1000万票に遠く及ばない。そして極めつけが池田大作は2010年5月を最後に会員の前から姿をけした。こうしてみるともはや完全に正邪はハッキリしている。現証もそうだが、大聖人の仏法においてはいかなる理由があろうとも仮に法主上人が仏法と相違したという事実がハッキリしていようとも戒壇大御本尊を捨てる側が「謗法者」であり「邪教」なのである。それなのにまだそれに気が付かずに池田創価が大聖人仏法の正義だと主張している創価民がいることが元学会員としては情けなく悲しい気分になる。もっとも池田創価を崇拝する「謗法者」は当宗にとっては大聖人・日興上人以来の富士の清流を汚すゴミのような存在だ。創価が30年前の破門を「魂の独立」というならば、当宗にとって30年前の創価破門は日顕上人が富士の清流のゴミ掃除をした日ということになろう。長い宗門の歴史の中では定期的に富士の清流の水底にたまったゴミを清掃しなければならない。そうやって謗法・異流儀というゴミを除いてきたからこそ富士の清流は今日まで保たれている。池田創価という大謗法の粗大ゴミを処分したのは日顕上人の大英断であると思っている。「池田創価はやがて戒壇大御本尊を蔑ろにするだろう」と予見した日顕上人の慧眼に感服する。信心ある学会員さんはいつまでも創価学会という名の謗法のゴミ山に身を置いていてはいけませんよ。長くそんなところにいると本当のゴミになってしまいますから。因みに私も元ゴミだったけどリサイクルされて資源になって戻ってきました(笑)「捨てればゴミ、分ければ資源」です。(笑
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