創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

題号だけの御書講義④(撰時抄)

今回の「題号だけの御書講義」は「撰時抄」です。【時を撰ぶ】という意味です。「撰時抄」の題号は通と別の二義が3つあります。一つ目は、「抄」とは各御書に通ているので「通」であり「撰時」というのは別して当抄の題号であるということ。二つ目は「撰」とは宗教の五綱に通じるので「通」宗教の五綱とは、教・機・時・国・教法流布の先後の五つで「撰ぶ」というのはこの五つ全てに通じます。そして「時」は別して五綱の中の「時を選ぶ」という事です。三つ目としては、文通・意別です。文通とは「撰」というのは文字は「撰捨」と「撰取」の両面に通じ、「時」は正法・像法・末法の三時に通じます。意別とは「撰」は「撰捨」と「撰取」のうち別して「撰取」を撰び、「時」は正像末のうち別して「末法」を意図しているということです。つまり「末法の時を選び取る」というのが「撰時抄」の意です。さて「撰時抄」の冒頭には、

◆夫れ仏法を学せん法は必ず先づ時をならうべし

と書かれています。何気なく読んでしまいますがこれが一番大切です。何故なら仏法の基本は「時」だからです。なぜなら「時」によって衆生の機根が決まり、衆生の機根によって「仏」が変わり「法(本尊)」が決まり、「本尊」「仏」によって「修行」が変わるからです。「時」に合致した「本尊」と「修行」でなければ衆生は成仏することができません。それ故に仏法を信仰するにはまず「時」を知らなければ信仰自体が無意味になり成仏どころが逆に無間地獄に落ちることにすらなります。

◆正法は一字一句なれども時機に叶いぬれば必ず得道なるべし千経万論を習学すれども時機に相違すれば叶う可らず。(佐渡御書

ですからこの「撰時抄」の「時」というのは創価の言うような世間一般的な「時代」という意味ではありません。前回の観心本尊抄でも触れましたが「時機応法」の全てをひっくるめた感応の「時」なのです。つまり「衆生の機根に応じて仏が出現してその衆生に対し正しい法を説く時」という事です。つまり「時を撰ぶ」というのは同時に「本尊を撰ぶ」ことであり「仏を撰ぶ」ことです。それが「撰時抄」の本意です。さて冒頭に書きましたが「時を撰ぶ」というのは「末法の時を選び取る」ということです。つまり末法の仏と末法の法体を選び取るということで、逆に言えばそれ以外は「選び捨てる」といことです。いうまでもなく末法の仏(人)と末法の法体(法)とは、日蓮大聖人の色心不二である本門戒壇大御本尊です。先にも書きましたがあくまでも「時」というのは「仏法上」の「時」のことであり創価の言う世法的な「時代」ということはないのです。そして現在は大聖人のご在世からずっと時代は末法なのです。創価が「時代が変わったから戒壇大御本尊への認識も変えた」などいうのは、「時」を習っていない出来損ないのインチキ仏法者の戯言に過ぎません。時代が再び正法或いは像法に戻らない限り、「本仏」も「本尊」も変わらないのです。それを変えてしまえば千経万論を学ぼうと得道(成仏)することは絶対にありません。確かに化義は時代によって多少の変化はありますが、それだって根本的な化義(修行)は、自行化他の題目と行学の二道と大聖人のご在世より何も変わらないのです。宗門に対して「時代遅れ」などと誹謗する創価民もいますが、仏法の時も知らないヤツが世法でいう所の「時代」などという言葉を使って何をホザイテいるのでしょう。仏法を語るなら仏法の基本である「時」を先ずお勉強しなさいという事です。ともあれ戒壇大御本尊への純粋な信心を貫く事が「時を選んだ」ことであり、時に合致した修行ですから得道するのは間違いありません。


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