創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

御講拝読御書研鑽(2023年6月・教行証御書)

末法に入りては教のみ有つて行証無く在世結縁の者一人も無し権実の二機悉く失せり、此の時は濁悪たる当世の逆謗の二人に初めて本門の肝心寿量品の南無妙法蓮華経を以て下種と為す「是の好き良薬を今留めて此に在く汝取つて服す可し差えじと憂る勿れ」とは是なり

 

今月の御講御書は『教行証御書』の御文でした。教学的に多くのことが詰まっている御文ですが色々書くと長文になってしまうのでかいつまんで記事にしたいと思います。まず【教行証】とは「教」とは仏の教法(教え)、「行」は教法に基づいた修行、「証」とは修行による果という意味で正法時代には3つ全てが揃っていて像法時代は「教」と「行」のみで「証」がなく、末法に入ると「教」だけしかなくなるというこです。つまり末法は教えだけで修行も果徳もない。確かに現代では「仏教の教え」は一般書籍や人々の思考の中に残ってますけど、さりとてほとんど人は無宗教といって仏教の修行をすることはありませんね。何故なのかというと末法衆生は本未有善といって過去に釈迦仏と無縁の人々(成仏の因を元々持っていない)だからです。このように末法では「教」しか残らないのですが、これはあくまでも本果釈迦仏の化導に約した話であって、本因本仏である日蓮大聖人の仏法に約せば末法は【教行証】の全てが揃っています。

◇諸文の中に末法無証というは、これ熟脱の釈尊の化儀に約するが故に、末法無証というなり。若し本因妙の教主釈尊の化導に約せば、今は末法に非ず、還ってこれ過去なり。過去とは久遠元初なり。故に行証あり。これ当流の秘事なり(当体義抄文段)

末法の【教行証】については日蓮大聖人の御書に書かれています。

◇開目抄と観心抄と当抄とを次の如く教・行・証に配するなり。(当体義抄文段)

と日寛上人が言われているように、『開目抄』では寿量文底の妙法を説き「教」を、『観心本尊抄』では受持即観心の修行を説き「行」を、『当体義抄』では唱題によって当体蓮華を証徳する旨を説き「証」をそれぞれ大聖人が御指南されています。(ここ覚えてね)よって「末法」というのはあくまでも釈迦仏の末法であって御本仏大聖人仏法においては【教行証】の全てを備えているわけですから、釈迦仏の末法こそ久遠元初の御本仏の正法になるのです。◆在世は今にあり今は在世なり(種種御振舞御書)とはこのことです。この【教行証】とはまた三大秘法のことです。即ち、「教」とは本門の本尊、「行」は本門の題目、「証」は本門の戒壇となります。さて、この【教行証】ですが我等凡夫においては「行」が全てです。「行」は因としての「教」に通じ、果としての「証」をもたらす因果をつなぐ因果俱時の縁だからです。「行」とは前述の通り南無妙法蓮華経の唱題ですが、身延や創価・顕正の唱題は本門の題目ではないので意味がありません。三秘を開くと六秘になりますが、本門の題目は「信」と「行」に開かれます。そして六秘を合わせれば一大秘法である三秘総在の戒壇大御本尊に帰結します。ですから本門の題目の「信」とは戒壇大御本尊に対する信でなければなりません。よって身延・創価・顕正等の異流儀の題目は「本門の」題目とはなりませんから、彼等には「教」のみあって「行」「証」が無い事になります。つまり不成仏であるということです。そして六秘の「行」の題目には自行・化他がありますからその両方を行じなければ大聖人仏法の【教行証】が完全に揃ったことになりません。つまり折伏をしていかなければ大聖人仏法の「行」としては不完全であり、「行」が不完全であれば得られる「証」も不完全となってしまうというわけです。本文の最後の寿量品の「是好良薬、今留在、此汝可取服」の文についても色々と書きたい事はありますが、折伏とは「是好良薬」を飲むように勧めることであり、折伏行は「遣使還告」の仏の使いである尊い修行です。仏の使いをできるということは最早「等覚」と言っていいですね。成仏間違いなしです。だから折伏は楽しいです。選挙では仏の使いになりませんからね。単なる創価の「使いッパ」ですから(笑)

 

創価・顕正からの退会・正宗への移籍のご相談はメールでお気軽に。※正宗への勧誘はしません。sokadamedasi@gmail.com

 

▼一日「イチ押し」お願いします!

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会 批判・告発へ
にほんブログ村


創価学会ランキング