創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

御講拝読御書研鑽(2023年10月・佐渡御書)

悪王の正法を破るに邪法の僧等が方人をなして智者を失はん時は師子王の如くなる心をもてる者必ず仏になるべし例せば日蓮が如し、これおごれるにはあらず正法を惜む心の強盛なるべしおごれる者は必ず強敵に値ておそるる心出来するなり例せば修羅のおごり帝釈にせめられて無熱池の蓮の中に小身と成て隠れしが如し、正法は一字・一句なれども時機に叶いぬれば必ず得道なるべし千経・万論を習学すれども時機に相違すれば叶う可らず。

 

今月の御講拝読御書は『佐渡御書』です。『佐渡御書』です。当抄は私が入信をして一番最初に全文を研鑽した御書で思い出深い御書です。さて今回の御文は同抄の中でも有名な部分でこの一分だけでも多くの御指南が散りばめられていますが今回は、【正法は一字・一句なれども時機に叶いぬれば必ず得道なるべし千経・万論を習学すれども時機に相違すれば叶う可らず。】について研鑽します。この部分は創価教学では「時に合っ戦い」などと教えます。つまり選挙や新聞啓蒙など時に合った戦いをすることが大切だというわけです。ですから私の様に選挙の時に折伏をしていると「師敵対」と呼ばれ組織を追放されます。(笑)でもここで言われる【時機】とはそんな話ではありません。【時機】とは言葉通り「時」と「機根」です。仏法においては衆生の機根は時によって決定されます。そして「時」とは正像末の三時です。即ち末法の時の衆生の機根は「本未有善」ということです。つまり末法今時に適った修行をしなければ得道(成仏)できないと大聖人は言われているのです。末法今時に適った修行とは本抄で◆仏法は摂受・折伏時によるべしと言われ、本抄の前月に認められた『開目抄』には◆邪智・謗法の者の多き時は折伏を前とす常不軽品のごとしと書かれており折伏行が末法今時に適った修行であると仰せです。これは末法今時の修行に関する別して狭義の御指南です。では総じて広義において末法今時の修行とは何かというと「受持」です。「受持即観心」が末法今時の修行の根本です。末法の受持とは以前も書きましたが「総体の受持」です。「受持・読・誦・解説・書写」という五種妙行(法華経法師品)をそれぞで別々に修行するのを「別体の受持」といいますが、『観心本尊抄』に釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う。との御指南があるように末法今時は、大聖人の御本尊を受持するという一行に五種の妙行は全て具足する訳です。勤行唱題は五種妙行の読・誦(なのでなるべく経本を読んで勤行するのがいいです。読まずに諳んじていたら読になりません。御観念文も然りです)、御供養は受持、講員さんに手紙を書いたり御書の一節を記述するのは書写(法主上人の御本尊書写は修行ではないので五種妙行の書写ではありません。ここが理解できないのが創価などの異流義です。)そして折伏は「総体の受持」という総じての末法今時の修行の中の「解説」になります。そして「総体の受持」において受持すべき本尊は、「総体の本尊」である本門戒壇の大御本尊です。◇本門戒壇の本尊は応に是れ総体の本尊なるべし。是れ則ち一閻浮提の一切衆生の本尊なるが故なり。自余の本尊は応に是れ別体の本尊なるべし。是れ則ち面々各々の本尊なるが故なり(日寛上人・観心本尊抄文段)この本門戒壇大御本尊を受持しているの信徒は日蓮正宗法華講以外にいません。つまり、末法今時の時機にあった修行をして得道できるのは正宗の僧俗だけなのです。まさしく爪の上の砂なんですね。だから私は誰に言われるまでもなく、勤行唱題・折伏・登山に参詣・御供養など出来る限りの信心をしていきたいと思っています。創価顕正会員がどんなに必死で活動をしても戒壇大御本尊を受持出来ないのだから末法今時の修行にはなりません。【千経・万論を習学すれども時機に相違すれば叶う可らず。】とはこのことです。そんな哀れな異流義信者に戒壇大御本尊の事を一文・一句でも語っていきたいと思います。

創価時代の御書です。我ながら恥ずかしいこともたくさん書いてあります。やはり創価教学はアカンなぁと今さらながら思います。

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