創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

受持即勧心の話。

◆天台大師の云く「信力の故に受け念力の故に持つ」云云(四条金吾殿御返事)

今さら言う事でもありませんが大聖人仏法の根本教義はこの「受持即勧心」の法門にあります。創価時代に「御本尊から離れないこと」と教えられそういものだと漠然と思っていました。2014年に創価が「戒壇大御本尊を受持の対象にしない」という発表をしたことをきっかけに「受持」とは一体具体的にはどういうことなのか考えるようになりました。あらためて自分に「受持とはどういうことなのか?」と問うてみたわけです。「受持とは何か?」という一見簡単そうに思える質問なのですがいざ答えようと思うと、なんだかぼんやりとおぼろげでなかなか自分が納得できる答えが見つかりません。一番基本の法門を自分があやふやでは折伏も出来ないと思っていたそんな時に偶然出会ったのが日寛上人の『観心本尊抄見聞記』の御指南です。日寛上人曰く、

◇受持即勧心なり。何となれば信心修行を以て名て受持と為す故也。

この御指南を読んだ時に「なるほど」と思いました。「受」とは信心・「持」とは修行なんですね。修行とは観心の修行なのです。では観心の修行とはどういう事でしょうか?御書に、

◆ ただし仏になり候事は凡夫は志ざしと申す文字を心へて仏になり候なり、志ざしと申すはなに事ぞと委細にかんがへて候へば観心の法門なり、観心の法門と申すはなに事ぞとたづね候へばただ一つきて候衣を法華経にまいらせ候が身のかわをわぐにて候ぞ、(白米一俵御書)

と書かれているように私たち末法の凡夫が成仏するための観心修行の根本は三宝を外護することにあります。そして外護するとは御供養とお給仕に尽きます。御供養というと金銭的な供養ばかりを想像しがちですがそうではありません。財施(金銭や物品の供養)をいくらしてもそこに【志】がなければ意味がありません。毎日できる一番の御供養とは勤行・唱題です。以前も記事にしましたが題目は日寛上人が、

◆心に本尊を信ずるは意業供養なり。口に妙法を唱うるは口業供養なり。身に曼陀羅を礼するは身業供養なり(妙法曼荼羅供養抄記)

と御指南されているように勤行唱題は自分の願いを祈ることがメインなのではなく御本尊に御供養申し上げるのが根本なのです。自分の願いばかり祈っているのでは修行になりませんからね。御本尊に唱題の御供養を申し上げる修行の結果として自分の願いが叶う功徳が現れるのです。そして外護の修行のもうひとつはお給仕です。御本尊がご安置されている自宅の仏壇に三具足や五具足を供え、仏飯・お水を差し上げ、果物や菓子・酒などを供え、仏壇やその周辺を常に掃除しきれいにすることは御本仏に仕えることです。言い換えばこれらもまた身の供養でもあります。このように勤行唱題の御供養をしお給仕し御本尊を外護することが受持することなのだと思います。そしてそれこそ大聖人の観心の仏法そのものなのだと思います。創価民は戒壇大御本尊を受持の対象としないだけで捨ててはいない。などと詭弁を弄しますが、外護しない~つまり守らないというのは「捨てる」と同意です。ですから創価本尊がニセだろうと本物だろうと関係ないんです。戒壇大御本尊を書写・印刷した本尊を創価が使っている以上はそれは全て戒壇大御本尊が大元であることは間違いないのですから、その大元を捨ててそのコピーに祈っても功徳なんて出ないのです。親や師匠を飢えさせておいて自分だけ満腹食べて嬉しい子供や弟子がいますか?少なくても仏法ではそんな者はいません。まぁ、今の創価民はインスタント勤行に唱題チョボチョボ。樒は無しか造花でお給仕もまともしない会員が多いようですから言っても分からないでしょうけどね。ただ本尊を安置して自分の願いや要求ばかり祈っているのは「受持」しているとはいいません。かくいう私もまだまだ御本尊様に対して至らないことが多々ありますから日々反省し勤行・唱題。お給仕に精進していきたいと思います。

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