創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

『化義抄』を学ぶ㉖(117~121条)

記事中の「赤文字」は『化義抄』から「青文字」は日亨上人の『註解』、「黒太字」は日達上人の『略解』からの引用文といたします。

 

【第117条】神座を立てざる事、御本尊授与の時、真俗弟子等の示し書之れ有り、師匠有れば師の方は仏界の方、弟子の方は九界なる故に、師弟相向う所、中央の妙法なる故に、併ら即身成仏なる故に他宗の如くならず、是れ即ち事行の妙法、事の即身成仏等云云。

神座とは位牌のことです。他宗では本尊と位牌を並べて仏壇の中に立てますが当宗では位牌をいつまでも立てません。葬儀の時の白木の位牌は返納し故人の戒名を過去帳に写します。その理由は御本尊授与の時(ここでは常住御本尊のこと)に御本尊にそのひとの名前が示し書きされ御本尊の主題の脇に法主上人の御名と花押がありますが、この法主上人が仏界(師匠方)で示し書きされた人は九界(弟子方)となり師弟相対した姿が中央主題の妙法と一体となり即身成仏を示しているからで、この御本仏の相貌が「事の即身成仏」の姿になります。ですから願主が亡くなった時はその魂は御本尊に帰入され御本尊とともに即身成仏するのです。ですから故人への追善回向は御本尊を御安置して行うのであり御本尊と別に位牌を立てる必要はないのです。御形木本尊の場合も同じで寺院で御住職による葬儀・法事を行えば師弟相対の即身成仏するのですからその後は位牌は不要なのです。さて、他宗で作った位牌であってもただ故人の名前や戒名だけが書かれているものであればその位牌自体が謗法というわけでありません。ただし位牌を御本尊と並べて仏壇に安置してはいけません。そのような捨てられない位牌が有る場合は御本尊とは別の場所に立てて置きましょう。

 

【第118条】当宗には断惑証理の在世正宗の機に対する所の釈迦をば本尊には安置せざるなり、其の故は未断惑の機にして六即の中には名字初心に建立する所の宗なる故に地住已上の機に対する所の釈尊は名字初心の感見には及ばざる故に、釈迦の因行を本尊とするなり、其の故は我れ等が高祖日蓮聖人にて存すなり、経の文に若遇余仏便得決了文、疏の文には四依弘経の人師と訳する此の意なり、されば儒家には、孔子老子を本尊とし、歌道には人丸・天神を本尊とし、陰陽には晴明を本尊とするなり、仏教に於て小乗の釈迦は頭陀の応身、権大乗の釈迦は迦葉舎利弗を脇士とし、実大乗の釈迦は普賢文殊を脇士とし、本門の釈迦は上行等云云。故に滅後末法の今は釈迦の因行を本尊とすべきなり。其の故は神力結要の付属とは受持の一行なり、此の位を申せば名字の初心なる故に釈迦の因行を本尊とすべき時分なり、是れ則本門の修行なり、夫とは下種を本とす、其の種をそだつる智解の迹門の始めを熟益とし、そだて終って脱する所を終りと云うなり、脱し終れば種にかえる故に迹に実体なきなり、妙楽大師、離脱在現、上の如し云云、是れより迹門無得道の法門は起こるなり云云。

本条は当宗においては釈尊を本尊としない旨が書かれている条項です。理由については基礎教学の部分なので詳しくは述べませんが、本条項の趣旨を簡単に言えば末法衆生は本未有善の衆生であるから(未断惑の機)であるから本已有善の機根断惑証理の在世正宗の機)の為の仏である釈尊ではなく釈尊が成仏した因行である南無妙法蓮華経を説いた御本仏・日蓮大聖人を仏と立てて、その大聖人の人法一体の一大秘法である戒壇大御本尊を根本とした血脈相承の御歴代の法主上人が書写し允可した妙法曼荼羅を本尊とするのです。当然のことですが創価顕正会のインチキ本尊は大聖人の心法不在のカタチだけ(色法だけ)戒壇大御本尊に似せた「偽本尊」になるわけです。

 

【第119条】法華経を修するに五の様あり、夫れとは受持、読、誦、解説、書写等と云云、広して修するは像法の読誦多聞堅固の時節なり、今末法は根機極鈍の故に受持の一行計りなり、此の証人には不軽菩薩の皆当作仏の一行なり、不軽も助行には二十四字を修したもうなリ、日蓮聖人は方便寿量の両品を助行に用い給うなり。文を見て両品をよむは読、さてそらに自我偈を誦し今此三界の文を誦し、塔婆などに題目を書写するは、受持の分の五種の修行と心得べきなり云云。

本条項は末法の修行にしての御指南です。『法師品』には受持・読・誦・解説・書写の五種類の修行が説かれていますが末法においては受持の一行だけで良いという御指南です。理由はいくつかありますが本条項に即せば末法の我々には五行すべてを修行することに耐えられないということです。他にも末法の修行は折伏がメインですから摂受の修行である五行は折伏の妨げになる。また受持の一行の他の四行が含まれる。などという理由があります。例えば本条に書かれている御僧侶が塔婆を書くのは受持の中の書写の修行になります。我々の信心に約せば勤行・唱題という受持の修行に全ての修行が含まれるということです。この総体の受持については過去記事を参考にしてください。

■過去記事はコチラ▶勤行・唱題は総体の修行という話。 - 創価ダメだしブログ

 

【第120条】一乗要決に日く諸乗の権実は古来の諍いなり、倶に経論に拠り互に是非を執す、余、寛弘(丙午)の歳冬十月病中歎じて曰く、仏教に遇うと雖も仏意を了せず、若し空手に終ては後悔何ぞ追わん、爰に経論の文義、賢哲の章疏、或は人をして尋ねしめ、或は自ら思択し、全く自宗他宗の偏党を捨て専ら権智、実智の深奥を擇ぴ終に一乗は真実の理、五乗は方便の説なるを得たる者なり、既に今生の蒙を開く、何ぞ夕死の恨を遺さんや文。

最後の2条は日有上人の御指南でなく当宗の化義でありません。経論を引用して信心を励ましている条項です。本条は天台宗の慧心僧都の『一乗要結』からの引用です。日達上人の略解から通解を引用します。

◇諸宗の権実は古来からあります。みな、それぞれ経論を根拠として、たがいに是非を論じあっております。が、私は(慧心僧都)寛弘三年十月に、ちょうど病中でありましたが、歎息して思いますのに、遇いがたい仏教に遇いたてまつっても、仏様の真意を了解できず、いたずらに一生を終ったならば、後悔してもおよぴません。そこで、経文や論義および先師の章疏を、使いを中国につかわし、この時代の名僧四明智礼に問尋し、あるいは自分で思惟して、自他宗の偏執を捨てて、ただ仏の方便の説と、真実の説法とを分別取捨して、ついに一乗は真実の教理であり、五乗は方便の教であるという結論をえたのであります。これによって、自分の今生における迷いの目を開き得ましたので、すぐこのまま死んでも、少しも心のこりはありません。

 

【第121条】涅槃経の九に曰く、諸の衆生命終の後、阿鼻地獄の中に堕して方に三思有り、一には自ら思わく我が至る所何れの処ぞや、則ち自ら知りぬ是れ阿鼻地獄なり、二には自ら思わく何の処より而も此に来生する、則ち自ら知りぬ人界の中より来る、三には自ら思わく何れの業因に乗じて而も此に来生する、即ち自ら知りぬ大乗方等経典を誹謗するに依って而も此こに来生す。

本条項は『涅槃経』の御文からの引用で読んだ通りです。本条項についても日達上人の略解を記します。

◇涅槃経の九に多くの人々は死んで阿鼻地獄に堕ちて初めて反省し、三思があります。第一は、自分で今来たところはどこであるかと考え、これは阿鼻地獄であると思惟します。次に自分はどこから、この阿鼻地獄へ来たのであるかと考え、それは人間界より来たのであると思惟します。最後に、では自分はどういう因縁によって、この阿鼻地獄などへ来たのかと考え、それは大乗経典の法華経を誹謗した罪業によって堕墜したのであると思惟します。よって正法誹謗の罪の深きことを知るのであります。

これで化義抄の全121条は終了です。次回は最後の結文とあとがきを書いて化義抄の最終回となります。

 

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