創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

勤行・唱題は総体の修行という話。

以前の記事に「勤行・唱題は総体の修行です」と書きましたが、今日はその話をしたいと思います。「総体の受持・別体の受持」とかいう小難しい話しじゃなくてもっと身近な話です。私達法華講員の修行と言ったら、「勤行唱題・折伏・ご供養・登山(参詣)」ですが、勤行唱題には折伏・ご供養・登山(参詣)の意義がすべて含まれています。私は勤行唱題は総体の修行であり、折伏・ご供養・登山(参詣)は別体の修行と捉えています。ですから勤行唱題は基本中の基本だと思っています。どういうことかといえば、まず折伏ですが、日寛上人の「如説修行抄」文段の中のご指南に、

◆常に心に折伏を忘れて四箇の名言を思わざれば、心が謗法に同ずるなり。口に折伏を言わざれば、口が謗法に同ずるなり。手に数珠を持ちて本尊に向わざれば、身が謗法に同ずるなり。故に法華本門の本尊を念じ、本門寿量の本尊に向い、口に法華本門寿量文底下種・事の一念三千の南無妙法蓮華経と唱うる時は、身口意の三業に折伏を行ずる者なり。

とあります。数珠を手にかけ御本尊に向かい、戒壇大御本尊(法華本門の本尊)を念じ勤行唱題をしている時は、我が身の身口意の三業を折伏しているのです。他者に向かって折伏をするのに自分自身が謗法であっては折伏成就などするわけありません。折伏成就の第一歩は自分自身への折伏であり、それが勤行唱題ですから勤行唱題は「折伏」の修行なのです。

次の同じく日寛上人の「妙法曼荼羅供養抄」の文段の中に、

◆心に本尊を信ずるは意業供養なり。口に妙法を唱うるは口業供養なり。身に曼陀羅を礼するは身業供養なり

とのご指南があります。大御本尊を信じ、御本尊に向かい勤行唱題を申しあげることは、全て身口意三業でご本仏日蓮大聖人へのご供養になるのです。いわゆる「法供養」というご供養です。ご供養したくても金銭的に苦しい時もありご供養できない自分を恥じ入ることも有るかもしれませんが決して恥じることはありません。日々の勤行・唱題は立派なご供養になっているのです。

そして最後に登山(参詣)ですが。これは大聖人の御書の中に、

◆我等が弟子檀那とならん人は一歩を行かずして我等が弟子檀那とならん人は一歩を行かずして天竺の霊山を見本有の寂光土へ昼夜に往復し給ふ事うれしとも申す計り無し申す計り無し(最蓮房御返事)

との御妙判の通りです。ここでは「天竺の霊山」とありますが、末法の霊山・寂光土とはご本仏・日蓮大聖人=戒壇大御本尊のおわします大石寺です。私達が勤行唱題をしているその時は、まさに一歩も動かずして戒壇大御本尊の許へ参詣しているのと同じなんですね。ちゃんと勤行唱題をしていれば、毎日朝晩2回私達は登山(参詣)をしていることになるのです。このように勤行・唱題の修行には、「折伏・ご供養・登山(参詣)」の全ての修行の意義が備わっています。創価時代にもよく聞いた話ですが「自分はいま祈ることがないのであまり題目があがらない」などという人がいます。悩みや目標がないから題目が上がらないという人は勤行・唱題が総体の修行だと分かっていない人なんですね。自分の「お願いばかり」してるだけなんです。苦しいときの神頼みと変わりません。それは大聖人の仏法ではないですね。もちろん、悩みや目標があればいくらでもお願いしてもいいです。でも「祈ることが無いから唱題が上がらない」というのは間違いです。そうい時は、1篇の唱題がご供養になっている、登山になっている。折伏になっていると思って勤行・唱題をするのです。勤行・唱題するときに「今から参詣するわ」「今から折伏するわ」「いまからご供養するわ」っていう気持ちで自宅の御仏壇の前に座ると勤行・唱題も楽しくなり、むしろ時間があるのに唱題しないのは勿体ないって思うようになりますよ。これは私の経験上の話ですけど多分みなさんもそう思うようになると思います。そんなわけで勤行・唱題は総体の修行であるという話をしましたが、勤行・唱題の総体の修行をしてれば、折伏・ご供養・登山(参詣)は免除になる(笑)なんてズルい考えはダメですよ。別体の修行も出来る限り頑張ってください。その上で「登山できない」「折伏できない」「ご供養できない」状況にあっても勤行・唱題の総体の修行を実践すれば必ず登山も折伏もご供養もできるような境涯になりますから別体の修行が今できなくても卑屈になる必要はないということです。

◆かならず、かならず身のまづしきことをなげくべからず。ただ信心のまづしき事をなげくべけれ(日寛上人・松任治兵衛殿御返事)


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