創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

現代科学と内外相対(ポリ銀さんの質問から)

先日、SNSの方にポリ銀さんから内外相対についての質問がありました。ポリ銀さんが内外相対を理解してないということはないでしょうから質問の核心は【現代科学も内道から見れば外道の一種ってことなんでしょうか?】という話だと思うので(違っていたらゴメンナサイ)今日はそのことについて回答します。まず「内外相対」のおさらいですが、「内外相対」とは大聖人の立てた教判の五重の相対の一番最初の相対です。余談ですがこの大聖人の五重の相対に全然教判に関係のないくっだらない三重の相対をくっつけて八重の相対とかいって得意顔しているのが波田地氏です。そんなデタラメ教学に感心している波田地グループの学会んさんに私は夏だというのに寒心しきりです(笑)さて「内外相対」というのは自分の内面に因果等を求める内道即ち仏法と自分の外にそれを求める外道即ち仏法以外の教えや宗教を比べて外道より内道(仏法)の方が優れてているという事です。詳しい説明は省きますが内道と外道の違いは内道は三世(現在・過去・未来)の因果を解き明かしているのに対し外道にはそれがないので外道に対すれば内道の教えの方が勝っているということです。ですから「現代科学」もまた内道である仏法から見れば「外道の一種」になります。さて、しかしながら大聖人は、

◆天晴れぬれば地明かなり法華を識る者は世法を得可きか。(如来滅後五五百歳始観心本尊抄)

◆まことのみちは世間の事法にて候、金光明経には「若し深く世法を識らば即ち是れ仏法なり」ととかれ涅槃経には「一切世間の外道の経書は皆是れ仏説にして外道の説に非ず」と仰せられて候を妙楽大師は法華経の第六の巻の「一切世間の治生産業は皆実相と相い違背せず」との経文に引き合せて心をあらわされて候には彼れ彼れの二経は深心の経経なれども彼の経経はいまだ心あさくして法華経に及ばざれば世間の法を仏法に依せてしらせて候、法華経はしからずやがて世間の法が仏法の全体と釈せられて候。(白米一俵御書)

とご指南されています。つまり「内外相対」で世法や化学を含めた外道は劣るといいながらそれらも仏法であると言っているわけでなんだか自語相違っぽく聞こえますよね?これは「相待妙」と「絶待妙」の違いなんです。五重の相対は教判ですから「相待妙」の立場なんですね。内外相対だったら、内道と外道を比較して内道の妙を立てるというロジックなんです。これを「大小相対」「権実相対」「本迹相対」と進めていって一番最後の「種脱相対」で「種妙」である南無妙法蓮華経になります。この「種妙」はもうこれ以上比較するものがありませので「絶待妙」になります。このように何かと比較するのが相対妙ですからその目線で見れば「現代科学は外道の一種」ですが、いちど「絶待妙」を知り逆のその立場からみると(開会すると)相待妙で切り捨ててきた全ての事は全て絶待妙である南無妙法蓮華経の部分論であることが分かります。「相待妙」でが外道の一種である現代科学も「絶待妙」で開会すれば妙法の一分を説明していることになり外道ではなくなります。例えば大聖人がご在世の時に門下の釈迦像造立を称賛したりご自身でも仏像を所持していましたがご本仏の御境涯でみればそれらもまた不要のモノではなく妙法の一分と映るわけです。もちろんだからといって「絶待妙」たる南無妙法蓮華経戒壇大御本尊)を蔑ろにしたり或いは二つ並べて信仰することは謗法であり「絶待妙」での開会の意味がなくなります。ですから仏像だろうとキリスト教だろうと現代科学だろうと「絶待妙」で開会して俯瞰すればそれは決して否定すべきものはありません。ただし、それらの世法を含む外道の法を根本とするのは間違いであるということです。折伏の時には、この「相待妙・絶待妙」の両方を使います。主に破折の時は「相待妙」弘教の時は「絶待妙」がメインですね。相手が現代科学を持って妙法を否定してくれば内外相対等の相待妙をつかい絶待妙を立て、そうでない時には絶待妙の立場で開会して妙法を教えていく。これらの使い分けが折伏には大切だと思います。創価や顕正相手に絶待妙で開会しても理解できませんからら彼らには徹底していかに彼らの信心が劣っているのかを分からせないといけません(笑)以上で一応質問の回答とさせていただきますが至らない点がありましたらご指摘ください。


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