記事中の「赤文字」は『化義抄』から「青文字」は『註解』からの引用文といたします。
【第3条】名聞名利は世事なり、仏法は自他の情執の尽きたる所なり、名聞名利は自身の為なるが故に世事なり、出家として此の心有る時は清浄の仏法を盗んで名聞名利のあきないになす処は仏法を盗むなり、然るべからざる心中なり尤も嗜むべし云云。
「名聞名利」とは名声や利益を求める生き方で世法の事で仏法はそうした「勝他」の心を仏法に持ち込んでではいけないという御指南です。日亨上人は当条項を、
◇名聞も名利も共に自他を峻別する上の世間法に過ぎず、世間の名誉と利益とは人心を動かす尤も其の甚だしきものなり、仏道に入れる僧俗も亦此の余習を受けて仏法的の名聞名利を恣にして僧俗共に分に仮設の階級に誇り・下級者を眼下に見て得々たり(註解115条)
と釈しています。即ち、組織上における「役職」などは仮の階級に過ぎないということです。それにも関わらず役職を誇って役職が低い人を見下したり偉ぶったり逆に自分より役職上位の人間を羨ましく思ったり妬んだりするのは世法であり仏法ではないということです。本文に「出家として」と書かれていますが出家とは御僧侶だけを指すのではなく仏道修行の時は在家も出家です。しかるに創価は役職は当然の事、新聞啓蒙や財務さらには教学に至るまでランクを付けて会員を煽りまくります。つまり学会活動なるものは仏道修行でもなんでもなくて名聞名利の世法です。本来であれば仏道修行に持ち込んではならない名聞名利を敢えて利用して会員を煽るのが創価流です。実際、私も自分より年少の幹部から「クン(君)」付けで呼ばれたことがあり注意しました。「俺より折伏も新聞啓蒙もできるようになったらクン付けで呼んでいいよ」といいました。それからずっと「さん」付けでしたが(笑)つまり創価自体が「名聞名利」を利用して会員を煽る組織なのです。平凡な主婦の婦人部なんてコロッと騙され創価の役職にすがりつき生きがいを感じる。これも名聞名利です。また創価に移籍した離脱僧などは創価のエサに飛びつき出家でありながら仏法を商売にする売憎以外の何者でもありません。ともあれ名聞名利の信仰は「法盗人」です。ましてやそれを世事の商売にし信徒から金銭や時間を奪い取る池田創価や浅井顕正などは言語道断です。まさに池田・浅井のごときは化他自在天=第六天の魔王といっていいでしょう。自分がそのようにならないように、またそのような名聞名利の人間に騙されないためには日々の唱題と教学の学習を怠らず常に求道心を持って信心に励むことが大切だと思います。「勝他の心」は修羅の心です。日々の唱題で「勝他の心」を打ち破る信心をしていきたいですね。
【第4条】手続の師匠の所は三世の諸仏高祖已来代々上人のもぬけられたる故に師匠の所を能く々取り定めて信を取るべし、又我か弟子も此くの如く我れに信を取るべし、此の時は何れも妙法蓮花経の色心にして全く一仏なり、是れを即身成仏と云ふなり云云。
「手継ぎの師匠」とは御本仏・日蓮大聖人即戒壇大御本尊にお取次ぎしてくれる法主上人ことです。また代々上人のもぬけられたるとは大聖人以来の代々の法主上人の命が御当代上人の一身に備わるということです。ちなみに初代法主は日蓮大聖人です。広げていれば所属寺院の御住職もまた私達を法主上人と繋いでくれる「手継ぎの師匠」といえます。仏法の根本は師弟相対です。釈尊・天台・伝教もそうであったように法体の大事は唯授一人相承されるのが仏法の相承です。当然大聖人の仏法においても同じです。創価は大聖人直結などといいますがどうやって直結するのか?そもそも大聖人直結なら池田大作も不要です。日亨上人は、
◇「師匠の所を能々取り定めて信を取るべし」と仰なるは、千古の金言として仰ぐべき事なり、「又我弟子も此の如く我に信を取るべし」とは・三世の諸仏も高祖も開山も三祖も道師も行師も・各々其師範より法水を受けて信心を獲得決定し給ふ如く・有師も影師に依りて信を取り給へば・有師の弟子たらん者は・此の如く我にと即有師に信頼して信心決定すべしとなり、「此時は何も妙法蓮華経の色心にして全く一仏なり」等とは・信の手続きに依りて師弟不二の妙理を顕はし・能所一体の妙義を証するを以つて本仏所証の妙法蓮華の色心は即所化の弟子の色心となるが故に・生仏一如師弟不二の即身成仏の域に達する事を得、是れ葢し信の手続によりて生する所のものなり。(註解42条)
と御指南されています。つまり唯受一人血脈相承を受けた御当代猊下の御指南を仰ぎ信心を取る時に仏界たる師匠と九界たる弟子が一念三千の法理により即身成仏するのです。創価は法華講員を「法主信仰」などと揶揄しますが本条を読めば創価の批判がいかに的外れなのか分かります。血脈相承もない池田に騙され戒壇大御本尊直結どころか大本尊を捨てた創価民は実に無慚です。そんな創価民を一人でも多く折伏し即身成仏の信心に戻してあげたいと思います。
【第5条】行躰行儀の所は信心なり妙法蓮花経なり、爾るに高祖開山の内証も妙法蓮花経なり、爾るに行躰の人をば崇敬すべき事なり云云。
「行体」は修行を、「行儀」は儀式を行うです。具体的に我々の立場でいうと勤行唱題・お給仕などの自行は「行儀」で、折伏などの化他行は「行体」になります。もちろん行儀と行体は全く別物ではなく而二不二の関係です。さて信心といっても目には見えません。その目に見えない「信心」(心)が具体的に外に現れるたのが、「行体・行儀」です。世法においても心は言葉や態度(行動)に現れるものです。また僧俗の違いは、「行儀」を表として縦に令法久住(伝持)するのが御僧侶で、「行体」を表として横に広宣流布(弘宣)するのが信徒です。もちろん行体行儀は一体です。日蓮正宗の御僧侶の執行する葬儀に参列し創価から正宗に移籍した学会員さんもいます。また私自身折伏や参詣・登山を実践していく中で大聖人仏法の行儀を覚えていきました。日亨上人は、
◇行体行儀は是れ信心の表現なり、行体なき信仰は其の至されるものにあらず・此を以つて本師常に信を談ずるに行体を重んじ給へり、信心の帰着は妙法蓮華経なり、妙法蓮華経の体現は行体に於いて此を認むる事を得、宗祖開山の御内証は・妙法蓮華経にして吾人の帰着する所も・亦妙法なれば・妙法躰現の行躰の人には如何なる人も敬意を払はざるべからず(註解47条)
と御指南され特に「行体」の大事を指導されています。我々信徒はいくら大聖人仏法の行儀作法を知って実践してもそれだけでは成仏できません。我々在家の凡夫が優先すべきことは行儀作法を覚えることでなく自行化他の行体を実践することです。そこに一生成仏があるわけです。そしてまた自行化他を実践している人は年齢・性別・国籍・信心歴問わず必ず即身成仏するのであるから敬意を払っていきなさいという御指南ですが私達は一歩進んで自行化他の人にただ敬意を払うのではなくそのような方の信心に倣って自分自身もそうなれるように常に心掛けたいですね。
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