創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

御講拝読御書研鑽(2020年9月・日女御前御返事)

此の御本尊も只信心の二字にをさまれり以信得入とは是なり。日蓮が弟子檀那等正直捨方便不受余経一偈と無二に信ずる故によつて此の御本尊の宝塔の中へ入るべきなりたのもしたのもし、如何にも後生をたしなみ給ふべしたしなみ給ふべし、穴賢南無妙法蓮華経とばかり唱へて仏になるべき事尤も大切なり、信心の厚薄によるべきなり仏法の根本は信を以て源とす。

今月の御講拝読御書は創価もよく使う「日女御前御返事」です。今回の拝読の御文は過去に創価座談会御書で講義したのでそちらもお読みください。

過去記事⇒ 創価教学じゃない御書講義(30年度10月座談会御書・日女御前御返事)

今回は【仏法の根本は信を以て源とす】の部分を研鑽してみたいと思います。前文の【以信得入】【以信代慧】と言われるように仏法はどんなに学ぼうが「信心」なき人間しかも末法に荒凡夫に理解できることはないのです。ネットでは「日蓮の仏法は云々」と講釈たれている無信心の人の発言を時折目にしますが根本の信心がない人間が知った口を聞いて大聖人仏法を否定している姿は実に滑稽にみえます。それはさて置き「信」とは具体的には何かといえば【南無妙法蓮華経とばかり唱へて仏になるべき事尤も大切なり】と言われているように「唱題行」のことです。題目を唱えることが大聖人仏法の源であり根本なのです。勿論だた題目をあげるというのはその「信じる対象」に対して題目をあげるのですが仏法は「仏・法・僧」に対して題目をあげます。題目とは「念じること」であり「念じること」とは「南無すること」と同意です。さて大聖人仏法における「南無三宝」とは、

◇南無仏・南無法・南無僧とは若し当流の意は、南無本門寿量の肝心、文底秘沈の大法、本地難思境智冥合、久遠元初、自受用報身、無作三身、本因妙の教主、末法下種の主師親、大慈大悲南無日蓮大聖人師。 南無本門寿量の肝心、文底秘沈の大法、本地難思境智冥合、久遠元初の自受用報身の当体、事の一念三千、無作本有、南無本門戒壇の大本尊。 南無本門弘通の大導師、末法万年の総貫首、開山付法南無日興上人師、南無一閻浮提座主、伝法日目上人師、嫡々付法歴代の諸師。

と日寛上人が「当家三衣抄」でご指南している通りです。ここで重要なのは御本尊・日蓮大聖人に対する信は当然のことながら歴代上人に対する信、即ち唯授一人血脈に対する信心も重要であるというこです。創価顕正会のように血脈相承を否定してしまえばいくら唱題をしてもそれは「不信」であり御本尊の宝塔に入ることは出来ません。そもそも大御本尊を書写した御本尊を信じているというのは「唯授一人の血脈」を信じるということが自然と含まれているのです。なぜなら書写のご本尊には必ず書写された上人のお名前が書いてあります。私の自宅の御本尊なら「日顕上人」いまだったら「日如法主上人」創価本部の本尊には「日昇上人」創価民のカラコピにだって「日寛上人」のお名前が書かれています。これは単に書写した上人の名前を書いているわけではなくこの署名に過去は日興上人から始まり現在の法主上人と更に未来の法主上人の全ての上人が僧宝として含まれているわけです。創価本尊も「日昇」とか「日寛」というお名前に全てのご歴代上人が含まれいるのです。もちろん日顕上人も日如猊下もです。その本尊に向かって題目を上げているのに唯授一人血脈を否定してるのは大御本尊だけではなく自分の本尊をも否定してることになります。ともあれ戒壇大御本尊を信じて題目をあげることが重要です。そこに血脈相承への信も含まれていますからね。

◇此くの如き三宝を一心に之れを念じて唯当に南無妙法蓮華経と称え乃ち一子を過ごすべし云々。 行者謹んで次第を超越する勿れ、勢至経の如きんば妄語の罪に因って当に地獄に堕つべし(当家三衣抄)

のご指南が【南無妙法蓮華経とばかり唱へて仏になるべき事尤も大切なり】という事です。


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