創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

御報恩御講と座談会。

今週末は月に一度の御講があります。私が法華講になったばかりの頃は創価感覚がまだ抜けていなくて御講は創価の座談会と同じような感覚で「行けるときだけ参加すればいいや」と思っていました。実際に最初の頃は御講に参加しないこともありました。御講でやることは勤行・唱題をしてご住職の法話を聞くだけで、創価の座談会のようにこっぱづかしい歌もなければ勇ましい活動報告などの催しはありません。勤行をして法話を聞くだけなら別に参加してもしなくても大丈夫だろうという感覚だったんですね。でもある日何がきっかけだかは忘れたけど御講にはちゃんと参加しなければ創価の座談会とは違うんだと思い改めそれからは毎月の御講に参詣できるようになりました。「御講は創価の会合と違って御報恩の為に催されるものだ」と気づいたわけです。最初から気づけよと思いますがまぁとにかく途中で気づいたわけです。御講に参詣しご住職と共に勤行唱題をしご住職の御書講義(法話)を聞く。それらは単なるプログラムではなく全てが大聖人様に対する報恩感謝でありご供養であるわけです。それ故に御講への参詣は功徳もある。これは創価の座談会というイベントとは全く異なる集まりだということです。創価の座談会に「報恩感謝の念」で参加している創価民なんて誰一人として聞いたことありません。創価の座談会はつまり単なる会員内部のイベントですから参加してもしなくてもいいわけです。もっといえば面白ければ行けばいいしつまらなかければ行かなきゃいいレベルなんですよね。だから創価幹部側は「面白いイベント」を目指すわけです。でも御講は違います。特別なイベントはありません。「報恩感謝」のご供養ですから、面白いとかつまらないとかそういう類のものではないわけです。私が折伏した元男子部の友人がご住職の御書の法話に「今日の御書の所は知っている。聞かなくても分かっている」と言ったことがありますが、法話を聞くのも「知っているとか、知らないとか」ではなく、その法話聴聞するところに意義があり功徳があるわけです。

◆法師品には「人有りて八十億劫の間無量の宝を尽して仏を供養し奉らん功徳よりも法華経を説かん僧を供養して後に須臾の間も此の経の法門を聴聞する事あらば我れ大なる利益功徳を得べしと悦ぶべし」と見えたり(松野殿御返事)

との大聖人のご聖訓に書かれている通りです。とかく私を含め元創価はなかなか創価時代の感覚が抜けなくてダメな部分が多いですが私の折伏した元創価男部の面々もまだ創価臭が抜け切れていない部分もありますが御講に参詣するようになってきました。さて、御講参詣というと元法華講員や現役法華講また創価の連中が「御講に強制参加させられる」などという発言をする人もいますがこの言い方もいかにも創価っぽい。でも現実に「御講に来い」としつこい法華講の活動家?さんもいるのでしょうが、それもまた創価感覚が抜けていないのだろうと思います。ただお寺に参詣するように促すだけでは創価の活動家と同じですから気を付けないといけないと思います。「お寺に来れば功徳がある」「御講に参加するのが法華講の信心」それは正しいのでしょうがやはり御講の意義をしっかりと話し、何故参詣に功徳がるのかということを話さないと単なる結集の為の人集めにしか思われません。私は法華講の活動家ではありませんが、自分が折伏した人達には何事においても「意義」や「理由」を説明するように心がけています。もちろん御講に限らず化義に関してはただ教える・伝えるのではなく、化法(法門・法義)に即して正しく説明することが大切だと思います。それが出来ないのが創価であり、やらないのが創価感覚です。ともあれ今月も御講に参詣しご供養させていただき、大聖人にこの1か月間の様々な出来事を報告し次の御講までも目標や決意そして願い事をしてこようと思ってます。今の私にとって御講は報恩感謝のご供養の勿論だけど、1カ月に一度、大聖人に正式に色々なことを報告する日でもあるので御講日は楽しみでもあります。創価時代の座談会とはダンチなんですよね。


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