創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

御講拝読御書研鑽(2020年11月・衆生身心御書)

ひへのはんを辟支仏に供養せし人は宝明如来となりつちのもちゐを仏に供養せしかば閻浮提の王となれり、設いこうをいたせどもまことならぬ事を供養すれば大悪とはなれども善とならず、設い心をろかにすこしきの物なれどもまことの人に供養すればこう大なり、何に況や心ざしありて、まことの法を供養せん人人をや。

今月の御講御書は「衆生身心御書」の上記の御文です。ご供養の事が書かれています。前半部分の阿那律(稗の飯を供養した人)と徳勝童子(土の餅を供養した人)の話はご供養の功徳を表す話として他の御書にも度々書かれいる話ですね。なぜ阿那律や徳勝童子のように「稗の飯」「土の餅」などといった粗末なご供養でも功徳が大きかったかのかというと「真の人」「真の法」に対して供養をしたからであると言われています。ひとくちに供養と言っても二種供養・三種供養・三業供養などといろいろありますがどんな供養でも大切なのは供養する対象です。末法衆生にとっての「真の人」とはご本仏・日蓮大聖人であり「真の法」とは南無妙法蓮華経です。この南無妙法蓮華経とは日蓮大聖人が所持するところの法ですから人と法は一体なのです。その人と法が一体となった実体が一大秘法である人法一箇の戒壇大御本尊です。ですからご供養は戒壇大御本尊に対して申し上げるところに大いなる功徳があるわけす。どんなに高級・高額な金品や最高の真心を込めて供養をしても間違った人・法に供養をしてしまっては功徳どころが大悪になってしまします。何故なら大御本尊ではない人法に供養するのは謗法への布施になるからです。創価の財務などまさしく大悪そのものです。折角の真心こめた財務がすればするほど悪業を積んでしまうのですから創価民さんは哀れです。それはさて置き、今書いたようにご供養とは大御本尊に対して奉るということは実はとても重要なことなのです。法華講員さんの中にはひょっとしたら所属寺院のご住職や大石寺日蓮正宗にご供養していると思っている人もいるかも知れませんがそうではないのです。所属寺院でするご供養も総本山にするご供養も全て戒壇大御本尊(大聖人)にご供養しているのです。法主上人をはじめとする正宗のご僧侶はみな大聖人の代理としてご供養を取りつでいるだけなのです。正宗では「お布施」という言葉は使わず全て「ご供養」というのはそのような意味があるからです。ここを勘違いすると一部の「供養を返せ」と恥知らずなことをいう創価民のようになってしまいます。創価民達はかつての供養を日蓮正宗にしたと思っているのです。だからこそ池田を筆頭に「供養をしてやった」「供養した寺を返せ」などと言うわけです。でもそうではない。ご供養はあくまでも日蓮大聖人に対してしたのです。それを「返せ」というのは大聖人に「供養を返せ」と言っているようなものなのです。しかも「供養を返せ」なんて言っている学会員に限って大御本尊に対してご供養なんてしてない(笑)仮に創価民が言うように信徒からのご供養を僧侶が自分の贅沢の為に使っていたなら大御本尊から罰を受けるのはその僧侶自身です。功徳も罰もそれを決めるのは大聖人なのですから供養を差し上げた我々がどうこう言う必要は全くないのです。そんなことでグズグズ言っていたら折角のご供養の功徳を消し去ってしまいます。いずれにしても我々法華講員は「真の人」「真の法」である戒壇大御本尊にご供養できるのだから幸せです。私も毎月の御講には聖教新聞代くらいのささやかなご供養をさせてもらってますがそれでも功徳は大きいと大聖人が言ってくるので嬉しい限りです。この御文を池田大作は悪用していますがその話はまたいつか書きます。


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