創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

創価教学じゃない御書講義(2022年12月座談会御書・新池殿御消息)

千里の野の枯れたる草に蛍火のごとくなる火を一つ付けぬれば、須臾に一草二草、十・百・千・万草につきわたりてもゆれば、十町二十町の草木一時にやけつきぬ。竜は一渧の水を手に入れて天に昇りぬれば、三千世界に雨をふらし候。小善なれども、法華経に供養しまいらせ給いぬれば、功徳かくのごとし。

 

今月は財務振込月間に会員を煽るに相応しい。『新池殿御消息』の冒頭の御文が座談会御書にエントリーです。こういう見え透いたカタチで会員を誘導し財務に駆り立てる。会長の原田稔も「広宣流布のための大福徳が積まれることは間違いない」「財務に勝る大善はない」とか適当な事を吹聴する。いかにもカルト教団の手口といったところです。創価員さんいは毎回言ってるけど、創価の財務に功徳なんかないのです。本文にも小善なれども、法華経に供養しまいらせ給いぬれば、功徳かくのごとし】とちゃんと書いてあるでしょう。そしてこの御文と

◆設いこうをいたせども・まことならぬ事を供養すれば大悪とは・なれども善とならず、設い心をろかに・すこしきの物なれども・まことの人に供養すれば・こう大なり、何に況や心ざしありて、まことの法を供養せん人人をや。(衆生御書)

との御妙判を会通すれば、法華経=真の人(御本仏)ですから、『人法一箇』『三宝一体』の体である戒壇大御本尊へ供養してこそ功徳は積まれるのであって創価学会献金しても全く功徳はありません。何故なら創価戒壇大御本尊を断捨離しているからです。そもそもが、在家が在家に献金することを供養とは言わないのです。「学会は広宣流布している法華経の行者なのだから供養を受け取る資格ある」と反論する創価民もいますが、その論理は池田大作の『仏教史観を語る』が大元です。池田曰く、

▼更に、この供養について、若干、歴史的なことを申し上げますと前にもお話しした維摩詰は、在家の身でありながら供養を受けた事実が『維摩詰経』に記されております。(中略)つまり、供養とはあくまで仏法のためになすのであります。その供養が仏法流布に生かされるならば、在家の身であっても供養を受けられるという思想があります。(仏教史観を語る)

とのロジックだが、これは教義逸脱だとして池田創価が自身が

維摩詰が供養を受けたことは法華経で観世音菩薩が受けたのと同じく仏に捧げる意味であります。ことに維摩詰は在家であり、供養を受ける資格があるとはいえません。経文に応供とあるのは仏のことで、供養を受ける資格があるのは仏以外はないのであります。したがって、在家が供養を受ける資格があるという記述は改めます

在家は供養を受ける資格がないと認めて訂正しています。「応供」とは仏の別名であって凡夫には供養を受ける資格はないなんて仏法の「基本のキ」です。もし、創価民が学会ではなく御本尊に供養しているというならば、学会員の御供養を創価本部の御本尊にお供えしているでしょうか?支払う側も受領する側も振込ですからどちらも御本尊にお供えしていません、日興上人は信徒からの御供養の品々を一々、大御本尊と御影にお供えしていたことを思えば、創価の財務は御本尊への供養とは言えないのです。さらに創価には広宣流布できないので創価法華経の行者でもありません。日達上人は、

日蓮正宗の教義が、一閻浮提に敷衍していってこそ、広宣流布であるべきであります。日蓮正宗の教義でないものが一閻浮提に広がっても、それは広宣流布とは言えないのであります。

と御指南されています。では何故、日蓮正宗ではないと広宣流布できないかと言えば、

1.『日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり』(身延相承書)とあるように広宣流布を付属されたのは日興上人であり、2.『日興が身に宛て給わるところの弘安二年の大御本尊は日目に之これを相伝す、本門寺に懸け奉るべし』(日興跡条条事)とあるように広宣流布の暁に本門寺の本堂(事相の戒壇)に掲げられる御本尊は戒壇大御本尊だからです。創価は大聖人直結というけど、大聖人から直接広宣流布の指揮を付属されていないし、直結という主張自体が僧宝たる日興上人への誹謗であり謗法です。そして何よりも広宣流布の暁に掲げる弘安二年の戒壇大御本尊を創価は捨てたのです。それは事実上、広宣流布を捨てたということです。創価広宣流布した暁には本門寺にどの御本尊を掲げるのですか?創価本部の本尊ですか?保田妙本寺の万年救護本尊ですか?どちらも大聖人・日興上人の御指南に書いてない。つまり創価には広宣流布できない。創価広宣流布を放棄したのだから創価学会員も創価学会という組織も法華経の行者でも地涌の菩薩でもない。従って、それらの者たちに財務をしてもそれは御本仏への供養とならない。よって功徳なんかでません。むしろ、まことならぬ事を供養すれば大悪とは・なれども善とならず】ですから創価への財務は大善どころか大悪なのです。大聖人の信仰をしたいのであれば創価員さんは戒壇大御本尊の許にもどり御本仏への信を取り戻すことです。創価学会に何百万・何千万と財務しても学会活動に何百時間・何千時間費やしても創価海賊版本尊に何百万・何千万の唱題をしても芥子粒ひとつの功徳も積めません。それよりも戒壇大御本尊を信じて唱えたたった一編の題目、たった1枚の樒に葉でもそこには無量の功徳が積まれるのです。それが今回の御文の真意です。これは創価へ対する誹謗中傷ではありません。冷静になってこの道理を一人でも多くの学会員さんが理解してくれることを願っています。今年もあと1か月。年内に創価を退会して素晴らしい新年を迎えてください。

 

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