創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

大御本尊・原理主義者だって(笑)

さて今日は先日当ブログに書き逃げしていった頭の固い人さんが貼り付けた雅彦氏のブログの造語「大御本尊原理主義者」ということについて書いてみる。以前同じような内容の記事を書いたので重複するけどご了承願いたい。

過去記事は▶ 教条主義ね~。

さて、彼らが言うには戒壇大御本尊を疑わないで他宗を破折するのは頭の固い「大御本尊原理主義者」らしい。そもそも「原理主義」などという言葉に明確な定義はないからこちらからしてみれば「オマエ等何言ってんの?」って話だが、以前も書いたが宗教の「宗」というのは根本という意味であり仏教においては具体的には「本尊」のことである。この本尊を根本的に信じるのが宗教であるから、自宗の本尊を疑うことは自身の信仰を疑うことに他ならなずそういう人を信仰者とは言わない。無論、無信心の人が大御本尊をどう思おうと自由である。しかし雅彦氏は自身を大聖人仏法の信仰者であると述べているから問題なのである。さっきも言ったように大聖人を御本仏と捉え大御本尊を生身の大聖人と捉えて信仰するのが大聖人仏法の信仰者なのである。よって彼らは大聖人仏法の信仰者ではない。そんな似非信徒が大御本尊をとやかくいう資格はないとまず言っておく。その上で彼らは化法と化義の違いがまるで分かっていない未教学な方々である。化法とは法体のことであり、法体とは何度も言うが本尊(宗)のことでその名の通り「法(大聖人仏法では人法)そのもの」のことである。なのでこの法体は時代によって変わることはない。法体が時代によって変わらないのだから当然「法体の解釈」も変化しない。時代によって変化してしまう本尊(法体)であるならばそれこそ信じるに足りない本尊なのである。しかし時代と共に変わるものもある。それが化義である。化義とは凄く簡単にいうと化法(法体)を広める方法であるから時代に合わせて変化するのが当然の事である。四箇の格言は今の時代に通用しないといかいう創価民がいるがそれこそ教条主義の守文奴である。確かに今の時代に「念仏無間」などと言って折伏しないが、四箇の格言の言葉の意味は邪宗破折なのであるから時代に合わないから四箇の格言は捨てるなどと言うのは折伏を放棄するのと同じだ。まぁオレは「創価無間・創価亡国・創価天魔・創価国賊」といまでも四箇の格言を言っているがな。そのように行儀としては今の時代なくなったものでも形を変えて時代に即して化義は変わっている。しかしその化義も法体を広めるための行儀だから化義が変わったら化法(法体)も変わるという事ではないは小学生でもわかる道理だ。例えていうなら、法体(化法)は憲法で化義は一般法律だ。一般法律はその時代に即して改正されたり追加されたりするが憲法を否定するような一般法律は作られないし、一般法律が変わったからといって憲法は変わらないのである。創価や彼らの主張は自分達で勝手に憲法違反の法律を作り憲法を守れと言っている人に「頭が固い原理主義者だ」と言っているようなものである。確かに人間が決めた憲法であるなら民意の合意さえあれば変更や改正も可能だろうが、大聖人仏法の憲法である戒壇大御本尊は大聖人が決めたことであるから民意で変えられるものではないのである。例え法主上人であっても本尊を変えることはできないし歴代上人で戒壇大御本尊を否定した上人はいない。先に書いたように大聖人仏法は大聖人を信じることであって大聖人とは大御本尊のことだからそれを疑わないのは大聖人仏法の信仰者として最低限度の姿勢なのである。もしどうしても疑いたければそれも自由だが、そのような人間が大聖人仏法の信仰者であると自称するなということである。なんでもかんでも自分達の思い通りに仏法の解釈を変えたがる人間は大聖人仏法の信仰者どころかただの信仰者ですらないのである。それなのにしたり顔で大聖人仏法の話をするから破折されるのである。でも破折されれば何の反論も対論もできない。仏法と関係のない科学とか持ち出して日興門流を腐すことくらいが関の山。仏法者を自称するなら法門法義の話をしてみろよって思う。「大御本尊原理主義」なんて印象付けの造語で日興門流たる日蓮正宗の僧俗のイメージダウンを図るだけとは実に情けない。それじゃ単なる「頭が軽い人」じゃないか(笑)


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