私事ですが昨日からお盆休みに入りました。「お盆」というのは正式には「盂蘭盆会」の略です。釈迦の弟子の目連が餓鬼道に落ちた母を救うための儀式(修行)が「お盆」の由来です。昨日は朝勤行を済ませお寺に参詣して塔婆にお焼香後、スーパーでリンゴとオハギを買い帰宅。仏壇と周辺を掃除して新しい樒とリンゴとオハギをお供えし唱題を申し上げ先祖のことをご祈念しました。我が家の仏壇は大きくないのでリンゴとオハギ、酒と落雁を置いたらいっぱいいっぱいです。それでもお盆にこうして御本尊にお供えできるのは嬉しいです。創価時代は塔婆は当然のことですが、こうしてお盆に仏壇にお供えをして唱題することはしませんでした。創価では給仕など教えてくれないしお盆・彼岸といっても特別な日という感覚はありませんでした。創価教では「塔婆は坊主の金儲けの手段」「俺たちは毎日先祖回向しているから盆も彼岸も特別なことはしなくいい」という教義でしたからね。「盂蘭盆」なんかよりも学会活動をした方が先祖供養になるらしいです。それは創価の教義なので別にどうでもいいのですが私としては創価を辞めて正宗に戻って法華講になって本当に良かったと思ってます。私の求めていた信仰は選挙の為に「拡大」などといって盆暮れ正月も関係なく一方的な友情を無理やり結ぼうとする活動をするより、こうして「盂蘭盆会」には先祖に塔婆供養をし寺院に参詣して焼香し、小さい仏壇ながらもキレイに清掃しお供物をご供養して静かに亡き父や祖父母に思いを馳せながら唱題する。このような信仰を私はしたかったし、それが仏法者としての有るべき振る舞いだとずっと思っていました。創価時代に果たして先祖に思いを馳せて唱題したことなどあっただろうか?そもそも過去帳もなかったですから。毎日の勤行で先祖回向はしますが新ためて先祖へ回向をしたことは創価時代にはなかったです。でも正宗に戻り法華講になってからは盆や彼岸には塔婆供養をし御本尊にお供物をご供養できる人間になれました。そしてこれが「信仰を持つ」ということなのだとしみじみ思うわけです。「塔婆なんて成仏に関係ない。必要ない」そう思いたい人はそれでもいいでしょう。でも大聖人も塔婆供養の功徳を説いています。ご供養の大切さも教えてくれています。塔婆供養をしたからといって罪業を積むことはありません。ならば私は報恩感謝の思いで塔婆を立て仏壇にお供物を供えたいです。創価の良く言う「人の振る舞い」「心こそ大切」という本来の意味はご本仏を敬う振る舞いであり心ではないかと思います。創価では絶対に得ることができない信仰が法華講にはあるとつくづく感じます。どうですか?創価や顕正の会員のみなさんも活動を止めてこうした信仰をしてみませんか?創価や顕正の活動をするよりも心が晴れ晴れと清浄になって恩や感謝という気持ちになり幸福感を味わえますよ。もう学会活動なんていう殺伐とした人生とオサラバして欲しいと思ってます。さて余談ですが妻が初めてお寺にきて焼香をしました。まぁ渋々感はありましたが一緒に参詣してくれて一歩前進という感じで嬉しかったです。といっても彼女はなかなか手ごわい(笑)でもどうしても御受戒を受けて欲しいです。
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