創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

座談会に皆で参加してみた。

先日、自分の所属している地区の座談会に自分が関わった元創価男子部の連中3人と一緒に参加した。皆で座談会に参加するのは初めて。本当は皆まだ正月休みだったから面倒だったけど地区長さんにどうしてもと言われたので地区長さんの顔を立てるつもりで皆で参加した。この日は法華講幹部のA氏が「顕正会破折」というテーマで「戒壇義」について話をしていたがその話の中で「戒壇の建立は御遺命ではない」という話があった。実は以前座談会に出た時も違う法華講幹部氏が同じような事を言っていたので話が終わった後に「戒壇建立は三秘抄にも一期弘法付属書にも明確に書かれているのだから御遺命ではないというのは違うのではないか。戒壇建立を御遺命ではないはないなんていったら顕正会に逆に破折される危険性があると思いますよ」と意見を言った。それからA氏と意見交換をしていると別の法華講員のB氏が「信心は理屈じゃなくて無疑日信が大切なんだ」と言ってきたので「そんなことは分かってますよ。でも今のテーマは顕正会の破折であり戒壇義なのだからちゃんと理論構築ができてなくてどうやって破折するんですか?」とB氏に聞くと「大聖人様の仏法は戒壇様と猊下様に信伏随従することだと教えればいい」というので「それをどうやって教えるのか?文証・理証以外の何で教えるのか?そもそも無疑日信でいいというなら顕正会も学会員もみんな無疑日信ですよ」といったのだがB氏とは全く話が噛み合わず、「門内摂受」とのご指南もあるのであまり突っ込まなかったけど、B氏は上記のこと以外に「お寺に来なさいよ」と言っり(それは地区長さんが私が参詣している事をいってくれた)「御書も自分勝手に読んでては間違える」と言ったり(これは私は歴代上人のご指南を元に学んでますよといったら「それなら大丈夫」といってたけど)なんでしょうね。なんかマウント取ろうとするんですよね。このB氏とはこの日初めて言葉を交わした程度で初対面なのに。ああ、だからと言ってこのB氏に対して怨嫉もなけりゃ批判もないしましてや破折してやろうとも思っていませんよ。いつも書くように創価と違って法華講は「しがらみ」がありませんからそんな気持ちは起きません。B氏と次に会話する機会があるかどうかも分かりませんから。だったらわざわざこんなこと書かなくてもいいのですが、私のように法華講初心者に分かって欲しいんですよね。「どこにでもそういう人はいる」と言う事を。私は創価時代もそうだったけど自分の信心を基準に他人の信心を決めつけることが嫌いです。でもどの組織にも他人の信心を評価する人はいるんですよ。だけどそのような人に出会って何か言われても気にする必要はないということです。その人の信心ををジャッジできるのは本人とご本仏だけなんです。それ以外は皆同じ末法の荒凡夫です。そんな荒凡夫から褒められようと貶されようとなんてことはないわけです。そもそもさっきも言ったみたいにもしも同じ講内に気が合わない・苦手な人がいたらその人に近づかなければいいだけです。法華講員が参詣するのは他の法華講員に会いに行くわけじゃないでしょう。あくまでもご住職に法門を聞いたりお寺のご本尊に題目をご供養したり時にはお寺にご供養するためだと思います。気の合わない講員さんと交わらないことは決して異体同心の信心を破ることではないですから同じ講員さんから何か言われても気にする必要もない。気にしなければ怨嫉なんてすることもないし信心を止めてしまうこともありません。万一どうしても我慢できない時はご住職に相談して対処すればいいわけです。また自分自身が他の講員さんに対して相手の信心に対して指導めいた事をいうのも避けましょう。在家同士で信心の指導めいたことをやり出すと創価みたいに怨嫉の宝庫になってしまいますからね。ただ。批判とか非難ではく教学(法門法義)に関しては間違っていることは間違っていると教えてあげないといけないとは思います。ぶっちゃけ「戒壇建立」を御遺命・ご命題ではないなんて言ったら顕正会に秒殺されます。文証に明確にあることを否定することになりますから。信心は理屈ではない事は間違いないですが、法の正邪は文理、つまり理屈なんです。それ抜きに「現証」なんて言い出せば法の正邪なんて判別できないですかね。そんなこんなが有った座談会でしたが色々と教学以外の事が学べて良かったと思います。ご住職が本山にいかれてて不在だったのが残念でしたが。しかし座談会とか法華講に必要なのかな?とも思いました。なんか創価の真似っぽくて。せめて「座談会」ではない呼び方だといいんですけどね(笑)


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