創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

盂蘭盆会法要に初参詣。

一昨日、初めてお寺の『盂蘭盆会塔婆供養』の法要に参詣しました。毎年、2度の彼岸とお盆は寺納で塔婆を立てています。私の先祖は日蓮正宗の人間は一人もいないので、塔婆をお寺に立てることで先祖の人達も年に3回お寺に参詣することができると思っていますが、今までは法要には参詣せずに個人でお寺に行ってお焼香をしていました。今年は、ずっと気になっていた妻の実家と昔お世話になった方の塔婆もお願いし墓参にいくことを決意しましたので塔婆を3本持ち帰ることになっていたので、折角なのでお寺の法要に参詣をしてきました。やっぱりいいですね。御本尊様と塔婆の前に献膳し御住職の導師で読経唱題して御焼香をする。私はこうしてきちんと昔からの儀式をして先祖を供養することが先祖を敬い慰める報恩感謝の心だと思います。確かにこうした儀式をしなくても日々の勤行・唱題によって追善回向はできるでしょう。でも心は目に見えない。その目に見えない心を表すのは行体であり儀式です。相手が聖霊であっても、いや聖霊であるからこそこうして目に見える儀式を整えることが大切だと思います。仏法では「身口意」相応を説きます。心と口だけで先祖供養を行うのではなくそこに身(儀式)を加えてこそ「身口意」相応の追善供養なんだと今回初めて盂蘭盆会法要に参詣し強く感じました。こうした、祖先を敬う大切な儀式すらも創価にかかれば江戸時代に僧侶が金儲けの手段として始めた行事であるから必要ない。という事になります。そもそも盂蘭盆会の起こりは大聖人が盂蘭盆御書に書かれているように目連尊者が始まりです。目連尊者は江戸時代の人ではありません。(笑)そして「僧侶の金儲け」などと言うところが下衆です。僧侶に対する供養をやめて創価の為に金使えと言っているようにしか聞こえず、むしろ「創価の金儲け」の為の指導でしょう。今回、私も塔婆のお金とは別に些少の御供養をさせていただきましたが、これだけの法要を個人でやった時のことを思えば、些少の御供養だけで法要を営んでくださる御住職には感謝の気持ちしかありません。創価では、今もやってるかどうか知りませんが「追善供養勤行会」でしたっけ?あんな儀式に何の意味があるのでしょうか?スーツを着た壮年部が同志でみんなで勤行するだけ。献膳もなけば御本尊に対するお供えもない。もちろん塔婆もない。自宅で一人で勤行唱題しているのと何も変わらない。しかも、その勤行会の時には「会館納金」といって会館で集金する財務まで行われる。やはり「創価の金儲け」です。自分の信心の功徳を回向するなんてカッコいいことを言っていますが、そもそもが創価本尊はインチキレプリカ掛け軸ですから回向する功徳なんてない。むしろ謗法の罪業を先祖に回向して苦しめているだけです。「ただ心こそ大切なれ」とは創価民の大好きな一節ですが、これは心の貧しい下衆な自分達への自戒を込めて使っているのでしょうね。(笑)さて、盂蘭盆会の法要へ参詣した私はその足で樒を買い妻の実家と昔の恩人の墓参を済ませて、夏の青空の元、海辺で冷えたモヒートを飲んでいるようなスッキリ清々しい気持ちになり、今年のお盆はかつてないほど大満足な1日となったわけです。創価民にはおそらく一生味わえない爽快感でしょう。一体、彼等にとって信心てなんなですかね。選挙に新聞啓蒙に財務。そんなことじゃないと思うんですけどね。信仰ていうのは。

 

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