創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

創価教学じゃない御書講義(2020年2月座談会御書・諸法実相抄)

行学の二道をはげみ候べし、行学たへなば仏法はあるべからず、我もいたし人をも教化候へ、行学は信心よりをこるべく候、力あらば一文一句なりともかたらせ給うべし

今月の座談会御書は「諸法実相抄」の最後の一文のあまりにも有名な一節です。本ブログでも何度も引用した御文なので復習というか確認というかそんな感じで書きます。この御文は大聖人仏法の大事である「信・行・学」を御教示されている一節で、創価では「御本尊根本」「題目根本」「御書根本」と聞かされるけど、これらはそれぞれ「信」に、約せば「御本尊根本」、「行」に約せば「題目根本」、「学」に約せば「御書根本」ということなんです。創価幹部の場合はバラバラに使うのでわかりずらいんですね。

で、行学の二道をはげみ候べし、行学たへなば仏法はあるべからず、我もいたし人をも教化候への部分だけど、「行」といのは「本門の題目」のことでこれには「自行(勤行・唱題)」と「化他(折伏)」があります。「学」はいうまでもなく「教学」です。一応「行」と「学」に分けていますが大きく言えば「行学」はともに「修業」です。日寛上人の「当流行事抄」に

◇大覚世尊設教の元意は一切衆生をして修行せしめんが為めなり

と書かれているけど大聖人の設教もまた同じです。大聖人仏法だけなく全ての宗教の修業はこの「行学の二道」に尽きるんです。

「我もいたし人をも教化候へ」と聞くと「自行化他の題目」ばかりそ思われがちですがこれは「行学二道」の修業のことだから「学」もまた自分も学び他人にも学びを勧めることが大切です。創価にしろ法華講にしろとかく活動家の傾向として「行」をメインにし「学」を軽く扱いがちなんだけどそうではない。仏法を失うのは個人であれば「教学」がないとうのが一番の要因だと思う。大御本尊を捨てた創価民たちは「行」は有ったが「学」が無かったから仏法を失ったと言って過言ではない。また弘教をしなければ仏法は実質なくなるが、「学」のない弘教は弘教とはいえないと思う。「教を弘める」には「教学」は必要。折伏・破折を「教学」抜きで語るのは俺は狂気の沙汰だとすら思っている。また「信心」「仏法」とは具体的な修行(行学)の上にしか現れないのだから「行学二道の修業」の中にしか信心は事実上存在しない。「行学の二道」に励むことが信心そのものということです。

次の行学は信心よりをこるべく候というのがこの御文の重要ポイントで、さっき全ての宗教の修業はこの「行学の二道」に尽きると書いたけど、この「行学の二道」とは「信心」から生まれるわけです。つまり「何を信じているか」で「行学の二道」の修業は変わるということです。そこでこの御文の直前に、

◆一閻浮提第一の御本尊を信じさせ給へ

と大聖人が信ずるべき対象を「一閻浮提第一の御本尊」と明確に示されているわけです。この「一閻浮提第一」というのは日寛上人が「末法相応抄」で、

◇当に知るべし第一は即ち是れ最極の異名なり、若し爾らば一閻浮提第一とは即ち是れ名字究竟の本仏なり

とご指南されています。名字究竟の本仏とは言うまでもなく久遠元初報身如来である日蓮大聖人に他なりません。さらに日寛上人は「観心本尊抄文段」で、

◇問う、妙法五字のその体何物ぞや。謂く、一念三千の本尊これなり。一念三千の本尊、その体何物ぞや。謂く、蓮祖聖人これなり

日蓮大聖人=妙法=一念三千の本尊であることをご指南しています。そしてこのご指南が書かれている同じ「観心本尊抄文段」の中で、

◇弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟の中の究竟、本懐の中の本懐なり。既に是れ三大秘法の随一なり、況んや一閻浮提総体の本尊なる故なりと言われ「撰時抄愚記」でも

◇文底深秘の大法、其の体如何。答う、即ち是れ天台未弘の大法・三大秘法の随一・本門戒壇の御本尊の御事なり

とご指南されています。つまり「一閻浮提第一の御本尊」とは「一閻浮提総体の本尊」である弘安二年の本門戒壇大御本尊であるというのが大聖人の弟子檀那・日興門流の「信心」なのです。この戒壇大御本尊への信心から生まれる「行学の二道」を励むことがこの御文の一番のポイントです。「大御本尊から生まれる行学の二道」とは逆に言えば「行学の二道によって大御本尊への信を強める」のが正しい修行でありその正しい修行に正しい結果が現われるわけです。創価にも顕正にも「行学の二道」はあるけど「正しい信心」から起こっていない。それを破折するのが日興門流の正しい修行です。

力あらば一文一句なりともかたらせ給うべしとは「随力弘通」ということです。「力が無いから弘通しない」「力がないから破折しない」というのではなく、自分自身の現在の力や環境下に置いて出来る範囲で語っていくということです。別に無理をすることありません。無理して周囲に反対され嫌われて「法難だ」なんて喜んでいるようじゃいけませんし、無理をさせるような指導をして「法難を起こせ」なんていうのもナンセンスです。法論・破折なら嫌われるのは当然だけど、弘教が目的ならば無理して嫌われるのは弘教ではなく自分や幹部・活動家の自己満でしかない。それで起こったイザコザなんてものは法難でもなんでもない。今は語れなければ語れなくてもいい。語れるようになろう、なりたいと祈っていけばいいのです。そうすれば自然と「力」(教学力だけではなく)が付き語れるようになります。それが随力弘通というものです。語れるようになった日のために「行学の二道」に励むことが大切で、「行学の二道」に励むためには大御本尊への「信心」が重要ということです。「信行学」はまた「身口意」の三業、「戒定慧」の三学の修行にも通じますから3つが揃って力を発揮するんですよ。


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