創価ダメだしブログ

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世界桂冠詩人の恋詩(こいうた)

池田大作の数ある名誉称号に「世界桂冠詩人」というよくわからない称号が有る。「桂冠詩人」というと英国を思い浮かべるけど池田に「桂冠詩人」の称号を与えた団体は、「世界文化芸術アカデミー」と「世界詩歌協会」という団体らしい。調べてみるとどちらも特別に権威がある団体ではなく、「詩歌が好きな人が集まって作った団体」のようだ。そんな組織からの表彰はいわば「プロ野球ファンが選ぶMVP」みたいなもので、多少の栄誉はあるかもしれないけど本当のMVPではない。という感じだろうか。さて池田はそんな「世界詩歌協会協会の選んだ世界桂冠詩人第1号」だそうだ。この教会の創立者は詩人のクリシュナ・スリニバスさんという人らしく、協会本部はスリニバス氏の自宅だという。このスリニバス氏を池田センセは長年後援したきそうで、センセの「世界桂冠詩人」の受賞理由は「世界詩歌協会への類まれなる貢献」と証書に書いてあるのだと。要する「池田氏の長年の当協会への支援を讃えて世界桂冠詩人の称号を授けます」と言う話である(笑)でしょうね~。池田大作の詩のどこがいいのか私にはさっぱりでしたもの。私に詩心がないとも思うけど私だけなくて世間の人々で池田の詩を評価している人なんて見たことない。彼の詩に涙するのは創価国の人達くらいですもんね。そんな「世界詩歌協会認定桂冠詩人池田大作」の最も有名な詩は例の「旅人よ、いづこより来りいづこへ往かんとするか~」という入信前に戸田会長の前で諳んじたたいう即興詩ですかね。でも私としてはこの即興詩よりもほぼ同時期に大作青年が三宅妙子さんへの恋文(ラブレター)に書き綴った詩の方が好きですね。

【体で見たことをゆう。体で見たことを書く。体で見たことを行ふ。目で見て見えるか?耳で聞いて聞えるか? 体で讀んだものが本当だ。 体で祈ったものは実現する。 体で語ることは誰にも聞える。 体で悟った真理だけが我がものである。爾(なんじ)の願いを高めよ。爾の願いを潔めよ。爾の願いを深めよ。爾の願いを廣めよ。私欲を離れた願いならば死ぬまで願いつずけよ。諦めるから叶わぬ。應答を信ぜよ。正しき願いは実現する。】(大作青年の恋詩)

このありふれたフレーズを並べた中学生のような出来栄えの詩の中に、大作青年がいかに妙子さんと「体」で語り合いたかったか、私欲を離れた性欲の願いの強さがしみじみとそして力強く表現されているではありませんか(笑)創価によるとこの手紙は三宅妙子さんへのラブレターではなく激励の手紙らしいけど入信したばかりの池田が信心の先輩である三宅さんに「激励」をするなんてナンセンスだし、そもそもこの恋詩の前に、【賢女のphotoを無理に頂いた私の心境を!妙子さん、お互いに若いのです。未完成です。故に、完成を目指し未完成の歌を高らかにうたほうではありませんか。】なんてことが書いてあります。大作青年は無理に妙子さんのphotoを貰ったそうですね。またここで、「写真」と書かず「photo」なんて覚えたての英語を使って見せるところが実に微笑ましいではありませんか(笑)きっと大作青年は何日もかけて頭から湯気が出るほど考えて考えて考え抜いて自作の最高傑作の詩を妙子さんに書いたのでしょう。わかります。わかりますとも!思春期の男子なら同じような体験をみんなしてるから大作青年のその気持ちはよく分かります。ただ気になる事があるんですよ。この「恋詩」が実に平凡すぎるというより、どちらかというと少し「駄作」の部類かなって思うんですよ。考えに考えてこんな「ダサい」詩しか書けなかった大作青年が戸田先生の前で即興であんな素晴らしい詩を諳んじることができたのでしょうかね?即興詩と恋詩とのクオリティが次元が違いすぎます。こう見えても(見えてないけど)私は若い頃ちょっとバンドを組んでいたことがあってオリジナル曲を数曲作りそれら曲の作詞を私が担当しました。(今では恥かしい思い出だけど)その経験から言わせてもらえば、同一人物が同時期に複数の詩をかいたらそのクオリティってほとんど同じなんですよね。なのに大作青年の即興詩と恋詩は全くもって別物でとてもじゃないけど同時期・同人物が創作した作品とは思えません。しかも構想を練りまくった恋詩よりも即興詩の方がハイクオリティなんてありえないんですよね。妙子さんへのラブレターは本物であることは創価サイドも認めているので、ならば即興詩の方は大作青年の作品ではないと考えるのが普通ですね。しかも「世界詩歌協会認定桂冠詩人」を受賞した後の詩も例の即興詩を超える作品は見当たらなないし、こんな素晴らしい即興詩を諳んじた池田青年について戸田先生は全く一言も言及していない。さらに即興詩には後年の戸田先生の「国士訓」に、「『不幸』よ!汝はいずこよりきたり、いずこへ去らんとするか。」と即興詩とそっくりなフレーズまである。まさか戸田先生が大作青年の即興詩をパックったとは思えないからやはり池田の即興詩伝説は後からつくられた神話なんだろうなって思う。後年、神話作りの為に即興詩を考えたゴーストさんもまさか大作青年が三宅妙子さんに中学生のようなダサい詩を書いているなんて思ってもみなかったからちょっとハイクオリティに創り過ぎちゃったのでしょうね(笑)いくら神話でも、もう少しリアリティーがないとウソがバレバレですよ。ゴーストさんがちょっと頑張って盛り過ぎたのが池田青年の幻の即興詩といったところですかね。

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