創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

創価には絶対に広宣流布はできない。

創価民は「広宣流布」を口にするが、創価に限らず異流義には絶対に広宣流布はできない。絶対にできないと断言できる。「広宣流布」を口にしている創価民に聞きたいが「広宣流布」の達成の時の現証をキミ達は知っているか?それを知っていれば創価に「広宣流布」ができないことは明白だ。

王法仏法に冥じ仏法王法に合して王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて有徳王覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時勅宣並に御教書を申し下して霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か時を待つ可きのみ(三大秘法禀承事)

この御文こそが大聖人の言われる「広宣流布」達成の時の現証なのである。「事相の戒壇」が建立された時が広宣流布達成の時であり広宣流布の現証なのである。そしてその「事相の戒壇建立」を日興上人ただお一人に託したのは、

日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり、国主此の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり、時を待つべきのみ、事の戒法と云うは是なり、就中我が門弟等此の状を守るべきなり。(身延相承書)

この身延相承書に明らかだ。いくら創価信濃町の大誓堂を荘厳しても、信濃町は富士山ではもなく大誓堂は「本門寺」でもない。つまり大聖人が示された「事相の戒壇」にはならない。だったら富士山に創価の会館を建設して「本門寺」とネーミングすればいいではないか?と思う創価民がいるかもしれないがそうは問屋が卸さない。なぜなら創価には本門寺にご安置する御本尊がないからだ。

◆日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊は、日目に之を 相傳す。本門寺に懸け奉るべし。(日興跡條條事 )

との日興上人のご指南にある通り「弘安二年の大御本尊」こそ広宣流布達成時に事相の戒壇にご安置されるべき御本尊なのだ。「戒壇大御本尊」というネーミングは、広宣流布に達成の暁に本門寺の戒壇にご安置されるべき大御本尊という意味である。逆に言えば「広宣流布」とは「富士山に本門寺の本堂を建立しそこに弘安二年の大御本尊をご安置する」ことを最終形態とし、「本門寺の戒壇建立」の許可・権限は血脈相承の法主ただ一人にご遺命され、その他大聖人門下の僧俗はその達成の為に弘教していくことが「広宣流布」なのである。だから唯受一人血脈を否定する顕正や創価が作った建物は大聖人がいわれる「本門寺」にはならないし、剰え「戒壇大御本尊」を捨てた創価が逆立ちしても「広宣流布」なんてできないのである。創価などの異流義では広宣流布の現証を示すことができないのだから、いくら言葉で「広宣流布」と言ってみても永遠に「絵に描いた餅」であり妄言にしか過ぎないわけだ。こんなことは分かり切ったことなのだが創価民は創価本部のいう「広宣流布」という言葉に騙されて、自分の時間や金を創価に差し出している。財務の時期になると「広宣流布のためのお金」などと言って集金するがいくら財務したところで「広宣流布」はできない。学会活動も然りだ。絶対に現証として顕れない「広宣流布」を目的にしている学会活動では、絶対に幸福の現証なんて顕れる道理がない。それなのに「絶対にできない」「絶対に手に入らない」モノの為に自分の人生を賭けているのだから哀れという以外に言葉が見つからない。また「絶対にできない」ことを分かりながら会員に財務を含めた学会活動をやらせる創価学会は「宗教詐欺」「大聖人詐欺」と呼ぶのに相応しいだろう。(顕正会も同じだが)「日蓮大聖人」の名を騙り「広宣流布」などという言葉を使い会員や世間を騙すのを即刻辞めよと求める。また「戒壇大御本尊」を捨てた創価を広めることは「戒壇大御本尊を捨てる人」を拡大することであり「広宣流布」を阻む行為である。こうした学会活動は謗法であり、そのような学会員は仏敵であることも付言しておく。そんな創価の活動をしていても当然功徳など出るわけもない。日蓮大聖人の仏法で幸福になりたい。日蓮大聖人の仏法を広めたい。と本当に思っているのであれば今すぐ創価顕正会の活動を止めて戒壇大御本尊の元に戻るべきである。戒壇大御本尊を離れた広宣流布など1000%あり得ないのだから。


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