創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

御講拝読御書研鑽(20207月・曾谷殿御返事)

謗法を責めずして成仏を願はば火の中に水を求め水の中に火を尋ぬるが如くなるべしはかなしはかなし、何に法華経を信じ給うとも謗法あらば必ず地獄にをつべし、うるし千ばいに蟹の足一つ入れたらんが如し、毒気深入失本心故は是なり

今月の御講での拝読御書は【総別の二義】が書かれている有名な「曾谷殿御返事」です。早速拝読箇所を研鑽します。謗法を責めるというのは具体的にはこの御文の次上の「若し善比丘あつて法を壊る者を見て置いて呵責し駈遣し挙処せずんば当に知るべし是の人は仏法の中の怨なり。若し能く駈遣し呵責し挙処せんは是れ我が弟子真の声聞なり」の涅槃経の文に書いてあるように、「呵責」(謗法を厳しく咎める)し駈遣(謗法を追い出す)し挙処(具体的な謗法を指摘する)ことです。謗法者を見ながらこうした破折をしなければ多くの漆に蟹の足を1本入れたら漆の効果がなくなってしまうように折角の信心修行も無駄になってしまうと大聖人様は言われています。では「謗法(者)」の定義とうと「顕謗法抄」には、

◆謗法とは法に背くという事なり ◆不信とは謗法の者なり

と書かれています。「法」に背くだけが謗法ではなく「法」を信じない人もまた「謗法者」になってしまうわけです。また、

◆凡そ謗法とは謗仏謗僧なり三宝一体なる故なり(真言諸宗違目)

と言われているように、謗法とは単に「法」に背き不信をいだくのではなく「仏」「僧」に背き不信を抱くことも謗法になります。なによりも【三法一体】の【本体】である戒壇大御本尊に対する違背・不信は一番の謗法です。更に「顕謗法抄」には、

◆正法を人に捨てさせるが謗法にてあるなり

と自身の謗法以外に他人に正法を捨てさせることもまた謗法であると書かれており、日有上人は化儀抄で、

門徒の僧俗の中に人を教えて仏法の義理を背せらるる事は謗法の義なり、五戒の中には破和合僧の失なり、自身の謗法より堅く誡むべきなり。

とご指南され自分自身が犯す謗法よりも、他人に謗法を犯させる謗法の方がより重大な謗法であると言われています。創価は正宗や日顕上人を「謗法」などと言っていますが正宗の僧俗も日顕上人もただの一瞬も三法一体の体である戒壇大御本尊に違背し不信を抱いたことなどありません。むしろ戒壇大御本尊を捨てた創価の方が「謗法」であることは明白であり、多くの日蓮正宗の信徒だった学会員を扇動し大聖人仏法の義理に違背させた創価及び池田大作が破門を受けるのは全く当然のことです。そして今もなお創価及び創価活動家は自身が戒壇大御本尊を捨てるだけではなく、多くの会員さんに戒壇大御本尊を捨てさせるために戒壇大御本尊を誹謗し御書を悪用し正宗の僧俗を中傷しています。こうした創価民などの異流義の謗法者を知っていながら破折を加えないのは「仏法中怨」なのです。謗法放置は謗法与同と変わらないのです。法華講員に対する大聖人からのご遺命は折伏です。

◆邪正肩を並べ大小先を争はん時は万事を閣いて謗法を責むべし是れ折伏の修行なり(聖愚問答抄)

実は折伏とは「謗法を責める」ことなのです。いつも書きますが破邪顕正折伏ですが、あくまでも「破邪が先」であり「破邪が根本」なのです。誰に対してでも「破邪」のない「顕正」はありません。ましてや謗法者であることが明白な創価・顕正・正信会・身延に対して駈遣し呵責し挙処しなければ成仏はおぼつきません。「御講聞書」には

日蓮が弟子臆病にては叶う可からざる事 仰に云く此の意は問答対論の時は爾前迹門の釈尊をも用う可からざるなり、此れは臆病にては釈尊を用いまじきかなんど思うべき故なり、釈尊をさえ用う可からず何に況や其の以下の等覚の菩薩をやまして謗法の人人に於ておや、所謂南無妙法蓮華経の大音声を出だして諸経諸宗を対治すべし、巧於難問答其心無所畏とは是なり云云。

とのご指南があります。今月は立正安国論上程の月です。大聖人様の弟子たる者は創価等の異流義の謗法者などに恐れてはいけません。臆病では祈りは叶いません。大聖人仏法の正法正義を堂々と語り謗法を責めていきましょう。


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