創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

非学匠で暗証の者。それが創価民。

非学匠は理につまらずと云つて他人の道理をも自身の道理をも聞き知らざる間暗証の者とは云うなり

「経典」を学ばない禅宗を「非学匠」といい「暗証」(仏法に暗い者)と「諸宗問答抄」中で禅宗を破折した御文である。仏法を学んでいない非学匠の暗証の人達は他人の言っている道理も理解できずに自分の言っていることが道理に合っていなくてもそれすら理解できない。だから「理論」に詰まることがないと意味だ。禅宗に限らず無宗教の人達などもこの部類だろう。無宗教ゆえにその理屈は個人の理屈であり個人の哲学なので誰からも論破されることはない。「信仰をしている人は弱い人間」「信仰なんて必要ない」等々、アンチ宗教の人達は宗教に対して色々と意見を言うがそれは個人的な意見であってそれが正しいかどうかの論証も何もないし論証する必要もない。また反論をされたところでいくらでもなんとでも言い返すことは可能だ。個人的な意見の正邪など本人以外の誰もジャッジすることではできないからだ。敢えて正邪の基準を言うとしたら多数決ということだろうが多数決が正しいということにはならない。もっとも無宗教の人達は宗教を学ぶ必要もないのだから「非学匠」であっても何の問題もないしそれを批判するつもりは無い。しかし創価民は無宗教者ではない。自称「仏法者」である。それにも関わらず彼らは「非学匠の暗証者」として仏法もどきを騙り正宗を誹謗するのである。これは大聖人仏法の信仰者としては看過できない。本来、仏法者が他宗を破折するのであれば大聖人がそうであったように仏法によらなければいけない。その為には自宗を学び他宗を学ぶのが「学匠」という者である。では「宗」とは何かと言えば先日も書いたように仏教における根本(宗)とは本尊に他ならない。本尊義を学ぶのが学匠。すなわち学匠とは信仰者と同意なのである。だからまず「本尊義」を争うことが法論の基本であり破折の根本だ。ところが最近の創価民は「本尊義」をまるで口にしないのである。ただ単に戒壇大御本尊と自余の本尊は同じというだけでその説明は一切できなない。創価の本尊は全て戒壇大御本尊を日蓮正宗の歴代法主が書写したモノを使用している。大御本尊と血脈相承を否定し日蓮正宗を誹謗しているのにも関わらずだ。彼らの言い分はせいぜい「大石寺は謗法の地になった」とか「時代が変われば教義も変わる」といったロジックで無宗教者と何も変わらない仏法を基準としない個人的・創価的見解である。「宗」(本尊)の教えが時代と共に変化してしまうのであればそれは宗教でないのである。「宗」の解釈が変わるということは創価には永遠普遍の本尊なんて「無い」ということの証明でもある。時代が変われば変わってしまう創価本尊では永遠の幸福はないということであり「ニセ本尊」と言われても仕方がないだろう。このように創価には宗である根本の本尊がない。よって仏法者として学ぶべきモノがないから創価民は全員「非学匠の暗証者」なのである。いくら御書を読んだ所で「学匠」にはなれない。だから彼らは、相手の言っていることも理解できないし自分達の自語相違や詭弁にも気づかない。ただ、個人的見解を叫び屁理屈を並べ取りあえず何か言い返し論に詰まらなければ「勝った」「正しい」と思っている似非仏法者なのである。「後出しジャンケン」は負けないが「正しくはない」のである。仏を師とせず法を師とせず正しき本尊を持たず自分勝手な修行をし自分を仏と等しいと勘違いしている禅宗修行者と全く同じである。そういえば創価民の屁理屈は禅問答とよく似ている。屁理屈に御書の切文をくっつけて「いかにも」な感じで繕っている創価民がいるが所詮は「非学匠の暗証者」である。法論から逃げ回り創価村のなかで村民同士で正宗の悪口を言うのが関の山である。「仏教なんて知らん。日蓮なんて知らん。」という分だけ無宗教の人達のほうが「知ったかぶり」してウソを騙る創価民よりよほど人間として格上である。まぁ創価民の永遠の師匠からし

「「勝つか負けるかなんだ。(中略)やられたらやりかえせ。世間などなんだ。私は恐れなど微塵もない。勇者は私だ。(中略)反逆者には、『この野郎!』『馬鹿野郎!』でいいんだ」

なんて指導しているレベルの人間だからその弟子達のレベルも推して知るべしではあるが。しかし「この野郎・馬鹿野郎でいい」と御書のどこに書いてあるのかね(笑)


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