創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

宗教と信仰と哲学

信心の話をしていると時折「宗教と信仰は違うのか?」というような話題になる事がある。「同じ」という意見もあれば「違う」という意見もあるが俺手には「似て非なるモノ」つまり宗教と信仰とは「何かを信じる」という意味においては同じだけど狭義においては全く違うと思う。「宗教」の「宗」の文字には「根本」とか「中心」という意味があるが具体的に宗教の宗つまり根本とか中心とは何だろうか?と考えた時にこれは「本尊」であると言える。宗教の宗とは具体的には「本尊」であって、その本尊の教え・説明が「教」ということだと思う。「宗教」とは「本尊」がまずあってそしてその「本尊の教え」がある信仰のことを「宗教」と呼ぶのだと思う。それに対し宗教以外の信仰は「本尊」がない。本尊が無いから「教え」もない。ただ祈り或いは祈りに相当する行儀があるだけの行為。それが「信仰」だと思う。また逆に「本尊」もないし行もなく「教え」だけというのが「哲学」という存在であると思う。例えば「幸福になる」ことを目的とした場合、ただの信仰は幸福になるための行儀(行動)はあっても、幸福になれるという理論的な説明ができない。例えば「トイレをきれいに掃除するとお金に困らない」とか「引き寄せの法則」などは全く理論的に説明できない。それでもそれを信じる人も人もいるわけでそれは宗教ではなく単なる信仰だ。また逆に「哲学」とは理論だけあって行儀がない。仮に行儀あったとしてもある考え(哲学)に対する解釈はマチマチなのでそれに対する行動もマチマチだ。それを行儀とは言わない。つまり「信仰」も「哲学」も人生の糧にはなるかもしれないが様々な問題を根本的に解決する方法にはなりえない。さて、「宗教」とはそうした「信仰」や「哲学」とは一線引いた場所にある。「本尊」があり「本尊に対する教え」があり「万人に一様の行儀」がある。それだけみても「信仰」や「哲学」とは大きく違う。念仏宗には念仏宗の本尊があり教えがあるし真言宗や他の宗派も同じである。だから各宗派それぞれ単独でみれば何も間違ったことは言っていない。各宗派が本尊と決めたものに対してその教えをといているだけだからだ。ここまでは普通に誰でも分かるのだが、その「本尊」に実は勝劣・浅深・高低の差別があることが皆分からない。それを教えてくれたのが日蓮大聖人だ。信仰や哲学といった浅いモノではなく「宗教」を持ちなさい。そして「宗教」=「本尊」を持つならば一番最高の宗教(本尊)を持ちなさいというのが日蓮大聖人の教えである。そして一番最高の宗教(本尊)と何かという事を大聖人は文理と現証をもって大聖人は教えてくれたというわけだ。さて、今書いてきた来たように本来「宗教」というのは「本尊」が最初にあり根本にあって「本尊に関する様々な教え」(法門)があり「法門を具体化する化義」が揃っているモノを宗教というわけだが今の時代「宗教」と「信仰」とがごちゃ混ぜになり「宗教」ではない団体が「宗教法人」になったり「宗教」ではない信仰や哲学を語る人間が「宗教家」を騙る紛らわしい時代になった。その最たる存在こそ創価だ。まず彼らの使用している「本尊」は全て日蓮正宗の本尊である。日蓮正宗を散々罵倒し破門されたにも関わらず彼らは厚顔無恥にも日蓮正宗の一大秘法である戒壇大御本尊を日蓮正宗の歴代上人が書写した本尊をあたかも「自分達の本尊」かのごとく振舞っているのである。しかも戒壇大御本尊と唯授一人法水写瓶を否定し非難しているのにである。さらには自分達の本尊ではないのにその本尊の教え(法門)までも自分達が勝手に作っているという気の狂いようである。しかし悲しいかな創価本尊は日蓮正宗の本尊であるから門外漢の創価民には本尊義など分からないのである。いまの創価民を見てみろ。誰一人として自分達が拝んでいる本尊がなんであるか説明できない。説明する創価民もなかにはいるがその解釈はマチマチである。何故かと言えば「池田哲学」を学んでいるヤツ等ばかりだからだ。また本尊の説明ができない創価民は「私は創価学会の幸せになった」という個人的な功徳論だけで理論はそこにないのである。今の創価民は「宗教」を持った人間など一人もいないのである。「池田哲学」信仰者か「無謬性」信仰者かのどちらかである。なにせ創価には事実上の「創価の本尊は存在しないのだから当然である。本尊が存在しないというのは「宗」が存在していなのだから「宗教」ではないのである。しかもこの人たちは自分達が自ら「宗」(根本・中心)を放棄しまた自ら進んで「宗」(根本・中心)を誹謗しているのだからお笑いである。そんな創価は宗教団体とは名ばかりな集団であり、創価民は「宗教」など持ってはいない単なる池田信仰者でしかない。そんな創価信仰をまとまな「宗教」だと思い込まされ、選挙や新聞啓蒙、創価財務に功徳があるなんて騙されている会員さんが気の毒である。まぁそう信じるのは個人の信仰だから勝手だがそれって「トイレ掃除したらお金に困らない」レベルの話である。そういえば「財務をすればお金に困らない」なんて指導もあるが、だったら「トイレ掃除」でいいじゃないだろうか?それこそお金もかからないしトイレもキレイになって気持ちいい。創価財務よりよほど清々しいのではないかと思う。


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