創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

生産性と可能性

折伏をしているとたまに無宗教の友人から「宗教には生産性がない」と言われることがある。つまり私達の朝晩行っている勤行・唱題には生産性がないから信仰は無意味だというわけなのだが、元創価・元正宗の人々から聞く「功徳なんてない」「願いが叶わなかった」と言う声が出てくるのも宗教に生産性を求めた結果の声なのだろう。生産性とは言うまでも利益を出す行為の事を指すとすれば、利益(功徳)が出ない宗教は無意味だということだろう。私は信仰とは生産性を求めるのでなく可能性の追求だと思う。現在生産性のあることも最初から生産性があったわけでない。最初は生産性があるだろうという可能性だけしかなかったのだと思う。産業や医学・科学、商売も然り。最初は可能性しかなかったがその可能性を信じた結果その可能性が実現し生産性を築き上げたのだろう。そもそも、一人の人間の人生もまた様々な可能性の中から生まれた結果であり、常に未来の可能性に向き合っている。「才能とは自分自身を自分の力を信じることである」とゴーリキーの言葉にあるが全くその通りだと思う。自分自身を信じることが出来なければいくら才能があってもその才能は開花しない。つまりその才能は生産性をうまない。とはいっても常に自分自身の力を信じることはよほどの才能を生まれ持った天才か単なる自信過剰の馬鹿かどちらしかいない。多くの人間は時には自信を持ち時には自信を失う。そんな時に信仰を持っている人間は強い。無宗教に人は信仰を持つ人間はは神仏に頼る弱い人間だと思いがちだがそうではない。確かにそのような信仰もあるかも知れないが、日蓮大聖人の信仰はそうした類の信仰ではない。御本尊を信じるという事は自分自身を信じることにつながるからで、しかも仏力法力を信じることによって傲慢にもならない。創価学会員には傲慢な人間が多いが創価学会の信仰は日蓮大聖人の信仰ではなく勝ち負けだけに拘る宗派なのだから傲慢になってしまうような信仰なのでそれは仕方ない。ともあれ、宗教には生産性はないかもしれないが、生産性を生みだす可能性はある。可能性がある以上はそれを試すことは人生にとって必ずしも無意味にはならなし、むしろプラスになると思う。無論、全ての宗教がプラスに働くとはいわないし新興宗教は微妙な教団も多いが、信仰も捨てたものではないと思う。

 

▼一日「イチ押し」お願いします

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会 批判・告発へ
にほんブログ村


創価学会ランキング