創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

宗教は思想でも哲学でもない。

「仏教哲学」、「仏教思想」という言葉をよく聞きます。創価学会の故・池田大作も「仏教哲学」という言葉を好んで使い、創価学会員は、「日蓮仏法の思想を広める。」といいます。創価学会に限らず、多くの宗教教団は宗教を「哲学」や「思想」として世間にアピールしていますが、私は信仰者が宗教を「哲学」や「思想」として語ることについては嫌悪感に近い違和感を感じます。宗教を「哲学」や「思想」として語ることは、宗教を矮小化することになるからです。特定宗教を持たない人にとっては、仏典も聖書も御書も、全て「哲学」「思想」と捉えるのは仕方のないことで当たり前のことですが、信仰者が自らそのように世間に告知し認知させることは間違っています。宗教は哲学や思想ではありません。「宗教」にあって、「思想」や「哲学」ないものとは何でしょか?それは「救済」です。なかには思想や哲学で救われたという人もいるでしょうが百歩譲って、「思想」「哲学」で自分は救われたとしても他人を救う事はできません。例えば、災害や戦争などの犠牲者の冥福を本当に祈れるのは信仰者に限ります。もちろん無信仰であっても、他人の死に対して、悼んだり悲しんだりする人間としての感情に嘘や偽りはありません。ただ無信仰者が「故人の冥福を祈る」といっても一体何に対して祈るのでしょうか?漠然と祈ってるだけで、死者の魂を鎮める事が出来るのでしょうか?また自分の肉親などの先祖に対して感謝の気持ちが有っても、一体どうやってその恩に報いるのでしょうか?哲学や思想では、「鎮魂」や「回向」をすることは不可能なのです。信仰者と無信仰者を比べて、「どっちが凄い・偉い」という話ではなくて、死者に対する救済は人間には不可能で、それは神仏に委ねる以外に方法はないということです。だから聖職者と言われている僧侶や神父・牧師は、宗教を哲学や思想として広めるのではなく、宗教の本質を説き広めるべきです。仏陀やイエス日蓮大聖人や道元親鸞などの宗祖の教えを、単に「偉人の名言」と同じ感覚で説くことは無信仰者の人達と同じで、聖職者や信仰者のとるべき態度はありません。また無信仰者の人達も書籍等の知識だけで、それが宗教が分かったと思うのも軽率です。そもそも宗教の教えは、相手に修行をさせる事を目的で説かれています。修行をせずに宗教の教えだけ学んでも、「宗教の教え」の本来の目的からは逸脱しています。知識だけで修業は特に必要ないという考えが悪いわけはありませんが、それでは宗教を理解していないのと同じです。逆に聖職者・信仰者は、自分たちは哲学や思想を弘めるのではなく、宗教を弘めるのだという自覚を持つべきです。だから宗教を哲学・思想に変換して、己の説法に満足している宗教者に強烈な違和感を感じるのです。宗教は哲学でも思想でもありません。また理解するものでありません。文化や芸術と同じように体感するものなです。

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