創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

教学はやっぱり楽しい。

ご存知でしょうが私は教学が好きです。好きというか楽しい。何といえば良く分からないのですが、自分が今まで分からなった事や知らなかった大聖人仏法の一端を理解し知ることができた瞬間の楽しさが堪らないのです。その瞬間は一人でニヤニヤしてしまうのです。ひと口に教学と言っても幅が広いんですよね。教学には「宗学」と「宗史」があって、「宗学」にはまた「法門・法義」(化法)と「行体・行儀」(化義)があります。これらを全部ひっくるめて「教学」といいます。創価時代は教学といえばだた「法門・法義」を学ぶことだと思っていましたが、正宗に移籍してからは「法門・法義」以外にも、「宗史」や「化義」を学ぶことも大切な教学だと思うようになりました。お陰様で、「法門・法義」に関しては大聖人仏法から退転しない程度の教学は身に付いたと思っているのですが「宗史」と「化義」についての教学力は全く足りていないのが現状です。創価では当然のことながら日蓮正宗の歴史なんて学ばないし大聖人の御生涯についても任用試験のときにさらっと学ぶだけで、あとは個人的に読んだ「小説・日蓮大聖人」の知識しかありませんでした(笑)「化義」に至っては創価ではほとんど教えないし訊いたとしても答えがバラバラ。鈴の打ち方ひとつとっても人によって全然違います。そもそも仏法における一番重要なな化義である葬儀ですら蔑ろでおざなりの創価ですから「さもありなん」ですが。そんなわけで法華講になってからは法門法義についてはいままで通りに学んでいますが、「宗史」と「化義」について一から学んでいます。これがまた守備範囲が広いわけです。「宗史」は基本の大聖人・日興上人の事から始まって「法難史」や近代史まで。もちろんその中には52年路線や平成の創価破門の経緯も含まれますからまだまだ基礎知識すら足りていません。「化義」については創価時代に学んだのは「日興遺誡置文」くらいで、ここ1年くらいは「化義抄」と「有師化儀抄註解」を何度も読んでいるところなんですが、「行体・行儀」というのは、それこそ御書に書いていない事の方が多い。御書に書いていないことを否定している創価民は随分と正宗の化義を真似ていますが一体その根拠はどこにあるんですかね(笑)化義についてはご住職や講頭さんに色々聞いたり正宗のサイトで調べたりしています。もちろん信心の基本は「信じる」ことであって仏法は師伝ですから「言われた通りにすればいい」のだと思います。法主上人やご住職のご指南通りに行動すれば信心の目的である成仏へ自然と導かれるのだと思うのですが、性格的なモノも手伝って「化義」の意味するところをどうしても知りたくなってしまうんですよね。別に「意味が分からないからやらない」ってわけじゃないんですよ。意味が分からないからって不信を抱くわけじゃない。「やります。やりますけどコレにはどんな意味があるんだろう」と好奇心で一杯になってしますわけです。で、勉強するとひとつの化義にちゃんと「法門・法義」の化法が備わっているんですね。それが分かると「なるほど~」って楽しくなるわけです。教学って何故か修行の中では「一番下」「一番最後」みたいに思われがちですよね。創価時代にある壮年部に教学の話をしたら、「御書、御書なんて言っていると原島(崇)みたいになるぞ」と言われたことがあります。要は教学ばかりやっていると退転するぞという意味なんですが(折伏も新聞啓蒙もその人よりはやってていましたけど)、ボクから言わせれば戒壇大御本尊を捨てて平気でいられる今の学会員さんは何のために御書を持っているのかな?って感じです。戒壇大御本尊に信を取るというのは一番最低限で一番最重要なある意味「唯一の教学」「根本の教学」なんですけどね。それはともかく、法華講になっていままで学んでこなかった「宗史」や「化義」を学んでいると新しい知識や発見があって本当に教学って楽しいなぁって思います。

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