創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

「有解無信」と「無解有信」

「無解有信」(理解はしていないけど信じている人)の対極として語れるのが「有解無信」(理解はしているけど信じていない)。「新池御書」に、

◆有解無信とて法門をば解りて信心なき者は更に成仏すべからず、有信無解とて解はなくとも信心あるものは成仏すべし

と書かれているようにこの「有解無信」は「無解無信」(理解もしてないし信じてもいない)人よりダメっぽく言われる。そんな「有解無信」の人というと宗教学者とかが頭に浮かぶけどもっと身近にたくさんいる。例えば元創価からアンチになり創価どころか大聖人仏法まで否定している自称「覚醒者」さん達なんて多分自分を「有解」無信の人だと思っているんじゃないかな。御本尊の相貌を比べたり文献や歴史を研究したり御書の研究をして偽書だのなんだの言っては大御本尊を必死に否定して大聖人仏法を否定したりしている。なかには釈迦仏法を持ち出して大聖人仏法を否定しようとする人もいて笑ってしまう。それでも自分で色々と学んで否定してる人はまだマシな方で、ネットのネタで色々と言ってる人を見るととてもじゃないが「有解」の人は思えない。それでも一人前に大聖人仏法を「分かった風な口」をきいているのだから滑稽だ。

そもそも俺は「有解無信」なんてものは大聖人仏法においては「理」としては存在するかもしれないが「現実」には存在しないと思っている。なぜなら「無信」の者が「解する」ことなどないからだ。「有解」というからには大聖人仏法がなんたるかを「理解」していなければいけない。大御本尊はニセモノ?それならそれでいいだろう。じゃぁ大聖人仏法の「体」は具体的には何であって何処にあるのか?それを明確に語る「覚醒者」は一人もいない。本仏は釈迦?それならばその釈迦仏と誰を指すのか?インドに生まれた釈尊であるならば、釈迦以前の仏を取らずに何故「釈迦仏」だけ採用するのか?五百塵点劫の釈迦なのであれば、一体その釈迦はどのような姿をしていて何を説き何を本尊として定めたのか?それを書いてくれる「覚醒者」もいない。ただ大御本尊や大聖人本仏を否定するだけで代替案すらないわけだ。そんな人々が「有解」であるわけないと思うのだ。そもそもいつも書くように「教学」というのはあくまでも大聖人仏法の法門法義を学ぶことであって世間一般的な学問ではない。そして仏法における「解」とは法門法義を理解するを指して「解」と呼ぶわけだ。世間一般の学問を指して「解」なんて言っていないのである。「解」は「信」と一体なのだから「無信」者が「解を有する事」は事実上不可能なのである。だから「有解無信」という言葉は有名無実の存在なのである。「無信」は全て「無解」なのである。どんなに利口そうに大聖人仏法を語り否定しても、その根本は「無解」でしかない。

学会員や法華講員の方の中にも「教学」の話をすると「無解有信」の言葉を翳して遮る人をたまに見かける。そういう人の気持ちの中には「教学」ばかり語る人を「有解無信」の人として見ているフシがある。「教学も大事だけどそれよりも信心」というセリフを何回も聞いてきたが今いったように「有解無信」なんていう存在は無い。「有解」であればそれは当然「有信」なのである。それを「有解」の人を見て「無信」であるかのように決めつけるのは「美人は性格が悪い」といっているのと同じだと思う。もちろん「諸仏智慧。甚深無量。其智慧門。難解難入。一切声聞。辟支仏。所不能知」である。ただ「知ること能わず」なのは「諸仏の知恵」のことである。つまり大御本尊の仏力・法力はいくら学んでも知ることはできないのであり、また自分の浅知恵でそれを決めつけてはいけない。ただ「信じる」以外にはない。しかし法門法義に関してはいくらでも学ぶべきだし知ることはできる。むしろ化義の折伏において「法門法義」に「無解」であることに満足していてはダメだろう。弘教も破折も育成も教学が無ければ進まない。創価であれ法華講であれ何かあればすぐに「唱題」というけどそれは間違っていないけど(創価の場合は唱題以前に本尊が間違っているが)それで一体どれだけの人が納得するのか。納得がない折伏は結局将来の退転者を増やすだけだと思う。なかには「無解」であっても「強信」の人はいるかもしれないが創価時代の経験からするとそれはむしろレアケース。そして客観的なコンセンサスを取れるのはやはり教学だ。「無解有信」はとっても尊いがやはり日蓮大聖人の弟子としては「有解有信」の信心を目指して努力していくべきだろう。「顕謗法抄」に引用されている涅槃経には、

■善男子若し人信心あつて智慧有ること無き是の人は則ち能く無明を増長す若し智慧有つて信心あること無き是の人は則ち 能く邪見を増長す

とある。「無解有信」は無明を増長し一歩間違えれば創価民の陥る■信ずる者にして慧無く顛倒して義を解するが故にと「顛倒解義」になるし「有解無信」は邪見を増長する。

やはり日興門流として大聖人の直参の講である法華講員としては「有解有信」の信心を目指していきたいと思う。

 


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