創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

『化義抄』を学ぶ⑯(72~76条)

記事中の「赤文字」は『化義抄』から「青文字」は日亨上人の『註解』、「黒太字」は日達上人の『略解』からの引用文といたします。

 

【第72条】他宗の法華宗に成る時、本所持の絵像木像並に神座其の外他宗の守なんどを法華堂に納むるなり、其の故は一切の法は法華経より出でたるが故に此経を持つ時又本の如く妙法蓮華経の内証に事納まる姿なりり、総じて一生涯の間大小権実の仏法に於て成す所の所作、皆妙法蓮華経を持つとき、妙法蓮華経の功徳と成るなり、此の時実の功徳なり云々。

当宗の信徒になったならば他宗の絵像・木像・位牌などの「謗法払い」をします。現在では個人で焼却・廃棄しますが以前は寺院の法華堂(垂迹堂)に納めました。正宗に「謗法払い」を教えたのは創価であるなどと妄言を吐く創価員がいますが正宗の古刹寺院には垂迹堂が残っている寺院もあり創価の妄言がデマであることが分かります。法華経の開経である、『無量義経』に【無量義とは一法より生ず】と説かれてるように、全ては久遠元初の一法である南無妙法蓮華経から生まれているので、垂迹堂に納めることにより絵像等の謗法物が元の一法(南無妙法蓮華経)に帰入され元来の姿に戻るのです。また、【総じて一生涯の間大小権実の仏法に於て成す所の所作云々】とは「謗法物」でなく「人」即ち信者約した御指南で、謗法者が戒壇大御本尊に許に戻ればそれまでの他宗での謗法行為すらも功徳になるという意味ですが、これは単純に過去の謗法の信仰が功徳に変わるという意味ではありません。それだと謗法をたくさん犯した人間がより多くの功徳を得ることになってしまいます。謗法はその罪障としての現証は当然現れます。しかし、それは罰ではなく【護法の功徳力】で転重軽受の現証として現れ、それによって信心倍増し成仏に近ずくいわゆる【罰即功徳】の法理であり、それこそが【実の功徳】であるのです。そもそも末法衆生の不幸の因は過去世の謗法ですから罪業消滅こそが戒壇大御本尊の一番の功徳力なのです。「いま創価を辞めたら今までしてきたことが無駄になる。」と思う創価員さんもいるでしょうが、それは間違いなのです。創価で犯した謗法は漏れなく堕地獄の因となります。創価員さんも成仏を願って信心をしこれまでの創価活動を本当に無駄にしたくないと思うのであれば、今すぐに創価を辞めて戒壇大御本尊の許に戻る事です。その時に初めて創価活動が活かされるのです。

◇信者の面から申すと、これまで一生涯を通じて爾前の諸教に精進して積んで来た善根は、今、妙法蓮華経を信受することによって、皆妙法蓮華経の善根に開会されて初めて、真実の功徳となるのであります。(日達上人・略解)

 

【第73条】法華宗は能所共に一文不通の愚人の上に建立有るが故に、地蔵、観音、弥陀、薬師等の諸仏菩薩を各拝する時は信があまたになりて法華経の信が取られざる故に諸仏菩薩を信ずる事を堅く誡めて、妙法蓮華経の一法を即身成仏の法ぞと信を一定に取らせらるるなり信を一法に取リ定る時は諸仏所師所以法也と訳して、妙法蓮華経は諸仏如来の師匠なる故に受持の人は自ら諸仏如来の内証に相叶うなり、されば四巻宝塔品には我即歓喜諸仏必然と説けり云云。

本条項の趣旨は、当宗においてはただ御本尊のみを一途に信じることを御指南されている条項です。自分は御本尊を信じているから大丈夫などと思って、地蔵や観音などの諸仏・諸菩薩も同時に拝していくと信が何筋にも分かれてしまい御本尊への一途な信仰の妨げになるのでそのような信心を禁止されています。破門後の創価は「信仰心がなければ大丈夫」などといって、祭りで神輿を担いだり自民党議員と選挙の必勝祈願を神社で行ったりなどしていますが、信仰心がなくても他の本尊を拝するのと同等の行為は固く禁止されていて創価の謗法容認は大聖人仏法においては不可なのです。当宗信徒が神社の行事に参加したことを創価は取り上げて正宗は謗法容認だと批判していますが、当該信者は指導教師より厳しい注意がなされ正宗において謗法容認などありえません。謗法を容認していたら、池田創価も破門されることなどなかった。しかし破門した。これこそが正宗が謗法厳禁であること、そして池田創価が謗法であることの証明です。

 

【第74条】本寺直の弘通所にて経を持つ真俗の衆は数代を経れども本寺の直弟たるべし、其の所の代官の私の弟子には有るべからず、既に代官と云う故に初従此仏菩薩結縁の道理爾らざる故なり云云。

この条項は総本山直轄の布教所についての御指南ですが、現在はそのような布教所はなく過去の文献にも見当たらず、「直の弘通所」がどのようなものであったか定かではありませんが日有上人の時代にはそのような形態があったようです。現在においては該当しない条項ですが、この条項の精神としては御住職や教化親であっても信徒を私物化していけない。全ての信徒は法主上人の弟子であり大聖人の檀那であるということです。第68条の「信は公のもの」という御指南と通じる御指南です。

 

【第75条】他宗の神社に参詣し一礼もなし散供をも参らする時は、謗法の人の勧請に同ずるが故に謗法の人なり、就中正直の頭を、栖と思し召さん垂迹の、謗法の人の勧請の所には垂迹有るべからず、還って諸神の本意に背くべきなり云云、但し見物遊山なんどには神社へ参せん事禁ずべからず、誠に信を取らば謗法の人に与同する失あり云云。

本条項は神社に参詣し礼拝したり賽銭を上げたりすることを禁止している条項です。何故なら神様は正法を正直に信じている人の頭に住むのですから謗法の人間の建てた神社には神様は不在で代わりに悪鬼が住んでいるからです。いわゆる神天上の法門です。神様は御本仏から離れて存在しません。よって身延日蓮宗のように別勧請などといって、御本尊から切り離して鬼子母神や大黒などを単独に本尊にするのは間違いであり謗法です。そのような神社での宗教行為は不可ですが、「物見遊山」つまり一般的な観光等で神社に行くことは許されます。修学旅行や社員旅行でいくならOKということです。日蓮宗・身延久遠寺に見物にいくのは問題ないですが、身延の本尊に題目三唱するのは不可です。さて、日興上人は『遺誡置文』で、【一見と稱して謗法を致せる惡鬼亂入の寺社に詣ずべけんや】と御指南されて見物であっても神社へ行く事を禁止していますがこれについて日達上人は、

◇これは未だ宗派の草創時代であったから、他との異を明らかに一線をもって制したのであり、日有上人の時は、すでに一宗が確立したから、見物ぐらいで信徒の心がぐらつかなくなっているからであります。(日達上人・略解)

と御指南されています。このように、化義については時代によって変わるモノ・不変のモノのがあります。このことは日亨上人が『日興上人詳伝』の中で『日興遺誡置文』の解説の段で言われています。もちろん【化義即化法】が大聖人仏法の法義ですから、化義を解釈・変更できるのは唯受一人血脈相承の法主上人だけです。創価や顕正のように在家が勝手に化義を変更することは大聖人の仏法を変質させる謗法行為・逸脱行為です。創価・顕正だけではなく法華講員が自身の判断で当宗の化義を勝手に変更するのも然りです。大聖人仏法の修行の根幹である勤行形式の変更などもっとも悪質な謗法で、創価・顕正の勤行はまさしく謗法の修行であると言えます。

 

【第76条】謗法の人の所に勧請の神社に垂迹有るべからず、と云う義は爾なり、我が正法の人として正法に神社を修造せん事は如何と云云。是れは道理然かなれども、惣じて、此の国は国王将軍謗法の人にて在す故に、謗法の国には垂迹の義有るべからず、という法門の大綱なるが故に小社などを建立しては法門の大綱混乱する故に謗法ならん間は神社を必ず建立なきなり、此の国正法の国ともならば垂迹を勧請して法華宗参詣せんに子細有るべからず云云。

本条項は、謗法の者が建立した神社に諸天善神は垂迹してこないが正法を受持している者なら神社を建立してもいいのではないか?という問いに対し、謗法の国には諸天善神は垂迹しないので謗国の間は法門の大綱(神天上法門)が乱れる元凶になるから神社を建立してはならないとご指南されている条項です。では、広宣流布になったら神社を建立していいのかといえば、神社の建立自体は問題ないけどその神社に祀るのは別勧請した諸天善神ではなく、あくまでも十界互具・事の一念三千の当体である曼荼羅本尊でなければなりません。

 

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