創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

法華講員のための顕正会破折の基礎知識①(国立戒壇という名称)

今回は顕正会の破折記事です。創価顕正会も一般の法華講員さんが法論をするような場面は滅多にないとは思いますが、弘教活動については創価よりも顕正会の方が積極的ですから創価員より顕正会員と遭遇する方が多い地域もあると思いますので顕正会破折の基礎知識を連載したいと思います。第1回目は顕正会教義の一丁目一番地である、『国立戒壇論』の破折です。顕彰会の教義の何が謗法なのかと言えば、日蓮大聖人の仏法の第一義は御遺命の国立戒壇である。】という主張です。『国立戒壇論』の邪義については数多ありますが、まずは、『国立戒壇』という名称を使うこと自体が間違っているのです。今さら言うまでもありませんが、『国立戒壇』という言葉は日蓮大聖人の御書のどこにも書いていません。この『国立戒壇』と言う言葉を最初に言いだしたのは身延日蓮宗系異流義・国柱会の田中智学です。田中智学が明治35年著してた『本化妙宗式目』の中で初めて国立の戒壇を建立するという事を提唱し、やがて当時の世相にも準じて『国立戒壇』という言葉が広く使われるようになりました。正宗でもそうした世情の中で自然と『国立戒壇』という言葉を使うようになりましたが、それは世界悉檀として一時的に使用したに過ぎません。事実、『国立戒壇』の言葉を用いた御歴代上人は、日亨上人・日昇上人・日淳上人・日達上人の4名だけです。それ以前・それ以外の御歴代上人は誰も『国立戒壇』などと言う言葉を使っていません。要するに『国立戒壇』の名称は御書にも書いていなければ日亨上人より前の御歴代上人も誰も使っていない言葉なのです。そんな『国立戒壇』なるものが大聖人仏法の第一義であるはずがないのです。◆大願とは法華弘通なり(御義口伝上)との御妙判にあるように、日蓮大聖人の大願、大聖人仏法の第一義とは折伏・弘教に他なりません。また、『国立戒壇』の名称について、日達上人は昭和45年5月3日に、

◇明治時代には、国立戒壇という名称が一般の人に理解しやすかったので本宗も使用したが、もとより明治以前には、そういう名称はなかったのである。よって、いらぬ誤解を招いて布教の妨げとならぬよう、今後は国立戒壇という名称は使用しないことにする」

と『国立戒壇』の名称の使用を禁止しさらには、

◇「国立戒壇」という言葉を、日蓮正宗では使用しなくなったからといって、日蓮正宗の教えから、「広宣流布の実現」「破邪顕正」の精神が無くなった訳ではありません。ただ、もともと、日蓮大聖人の仏法では使われてこなかった「国立戒壇」という単語を、単純に使わなくなった、というだけのことです。

と御指南されています。大聖人の御指南には、

◆先判・後判の中には後判につくべし(開目抄上)

◆先判に付いて後判をもちいぬ者にては候まじきか。これらは、仏説を信じたりげには我が身も人も思いたりげに候えども、仏説のごとくならば、不孝の者なり。(南条兵衛七郎殿御書)

とあり、御歴代上人の御指南は常に新しい御指南(後からの御指南)に従うのです。日達上人以降の法主上人が、「国立戒壇の名称を再び用いるべし」と言わない限り『国立戒壇』の名称を使用することは大聖人の御指南に反することであり、その内容の如何に関わらず、『国立戒壇』という言葉を使用することじたいが謗法なのです。

◆文証無ければ、ことごとくこれ邪の謂いなり(持妙法華問答抄)

◆私に会通すべからず(曽谷入道殿許御書)

等の御聖訓にも明らかなように、御書にも書かれいない且つ異流義・田中智学の提唱した、『国立戒壇論』を主張する浅井・顕正会は大謗法団体であり邪教団なのです。

 

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