創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

気楽に語ろう創価非活でアンチ正宗の人達の事。

創価で無信仰に転身した人達(覚醒者というらしい)で創価も正宗も両方とも批判している人達っていますよね。私にはどうもそういう覚醒者さん達の目的と言うか思考と言うか、それがよくわかりません。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いってことで創価が憎いからその大元となっている正宗も大聖人も憎いってことなんでしょうけど、せっかく覚醒?したのだから創価や正宗に関わらなくてもいいのにって思うんですよ。私等のように元創価法華講創価を批判しているのは日蓮大聖人の正しい仏法を伝えるいわば折伏弘教としてこうしてブログとか書いているんですけど創価を辞めて無信仰になった人には特に他人に伝えることなんてないじゃないですか。せいぜい「創価を辞めて良かった。信仰を捨てて良かった。」という類の話くらいですよね。そんな取り留めのない話をブログやSNSで発信している時間があるなら信仰のない生活を謳歌すればいい話だし多くの覚醒者さん達はそうしています。なのに創価や正宗を批判してそれで信仰を止めていく人をみて喜んでいるという感覚が私にはわかりません。確かに邪教のインチキ創価を退会することはお目出度いことですが、なんか元創価無宗派の人って自分が創価や大聖人仏法の信仰を止めたことを誰かに承認してもらって自分が正しかったという安心感が欲しいだけなんじゃないのかな~って感じます。自分の仲間を増やしたいみたいな感覚なのかな?「信仰をやめて無宗教になれば幸福になれる」という理論を展開するわけでもなく結論としては自分が自分で決めてくださいっていうスタンスが無信仰者の大半で、ただ他人様に信仰を止めさせるというなんとも非建設的な作業をしてるなぁって思います。まぁ無信仰でもアンチ正宗でも別に構わないですが言われっぱなしで放置しておくのも大聖人仏法者として懈怠の罪になるし無信仰アンチ正宗の意見への反論もあった方がより多くの人の参考になると思うので気楽に元創価アンチ正宗の人達への反論を書いてみます。元創価アンチ正宗の人達のいい所は現役創価と違って多くの元創価アンチ正宗の人はデッチ上げのくだらないスキャンダルで正宗を批判をしない所です。全員ではないけど彼等は史料などを挙げて正宗を否定してきします。ただ如何せん大聖人仏法の法門に関して疎いのです。それこそ創価民レベルでしか大聖人法門を理解できていません。それは当然のことで元創価ですから創価教学でしか大聖人の仏法を学んでいない所に大聖人の相伝仏法を最初からを否定しているので大聖人法門を理解することができないわけです。御本人達は法門の話をしているつもりかもしれませんが法門等の話はほとんどしないと言うかできていないというところが残念な部分です。史料を提示して「戒壇大御本尊はニセモノ」、「日蓮本仏論は間違い」、「血脈相承はまやかし」と主張しているだけなんですね。それらの主張は身延学者やそれこそ今の学会活動家と同じで「元創価です」という注意書き(笑)がないと創価脳の現役学会活動家と思ってしまうほどです。(笑)理論にも一貫性がありません。例えば「戒壇大御本尊は後世の贋作だからそれを本尊とするのはインチキだ」という論法をよく聞くけど、それなら他宗派の仏像などの本尊だって贋作ですよね。そもそも釈迦仏や阿弥陀仏っていうのは本当にあの仏像のような顔であのような姿をしていたのか誰も知らないし根拠もない。幸福の科学のエルカンターレ像と変わらないじゃないですか?だけどそれらの宗派の本尊(仏像等)は批判しないで正宗の本尊だけ批判するのは要は「為にする批判」でしかないと思います。史料を挙げてあたかも客観性をデコレートしても結局は正宗を批判したいだけで創価民と変わりません。そして何よりも文献等の史料をもって法門・法義を否定することは実にナンセンスだと思います。例えば、「花子さんは林檎を2個持っていて1個を食べました。残りの林檎はいくつでしょう?」という問題に対して、「花子が林檎を本当に2個持っていたことを証明しろ」、「そもそも花子なんて言う人物がいたことは証明されていないではないか」と言っているようなもので、こういうのは批判ではなく「言いがかり」というものではないでしょうか。国語の問題を数学で解こうとしてようなものでナンセンスです。またこのようなロジックに共感して信仰を止めてしまうならば良し悪しは別としてそれは最初から信仰心がなかったというだけです。そもそも仏法で一番大切なのは「文」ではなく「義」なのです。日寛上人は、『依義判文抄』の冒頭で、

◇明者は其の理を貴び闇者は其の文を守る、苟くも糟糠を執し橋を問う、何の益かある。而も亦謂えること有り、文証無くんば悉く是れ邪偽なり、縦い等覚の大士法を説くと雖も経を手に把らずんば之れを用ゆべからざるなりと。

と御指南されています。最初に「義理」(法理)がありその後に「文」が続くのです。「文証」は重要ですか「文章」が全てありません。

◆書は言を尽さず言は心を尽さず(太田入道殿御返事)

との大聖人の御妙判もあります。法門とは大聖人の心法でありそれは文や言葉だけでは表せないのです。文献や科学的根拠を理由に大聖人の仏法を否定し捨てていくのは本人の自由ですから構いませんが、その学術的根拠とやらが大聖人の仏法であると思うのは完全に違いますのでそこは認識しておいて欲しいと思います。まぁ何も史料を集めて頭から湯気出しながら信仰を止める理由なんて探さなくていいのです。それこそ、「後付け」ですから。しかも「信教は自由だ」とか「自分が信じているものが正しい」なんて無宗教アンチ正宗の人達は言ってますけど、だったら正宗も創価も批判するのは自語相違だと思いますけどね。

 

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