それ、結要とは四句の要法なり。すなわち、文上本果の題目なり。寿量文底の題目は、上行付嘱内証の題目にして、外用結要の題目にあらず。けだし、結要とは本果妙の題目を説き顕して本因妙も題目を付嘱し給うといえども、その本果妙の題目の功徳広大にして、所詮、説き尽くし難きをもって、これを四句に結び付嘱し給えども、その付嘱の正体は、いまだ在世に顕し給わざる寿量文底秘沈の本因妙の題目なり。
第5章は、「本門の題目を論ずる」章で、54節は日守の「所詮、結要付嘱の妙法五字こそ、当今、我らが必要とするところなり」という主張に対する破折です。この日守の主張は、「神力付嘱・上行所伝の妙法のみが久遠の本仏の正意であり、宗祖の正意である」という八品派と同じ主張です。日守は要山(要法寺)のくせに何を言っているんだかと嗤ってしまいます。ただ、この主張の「どこが間違っているのか?」ピンとこない人もいると思います。上行菩薩に付嘱された題目が大聖人の正意というのは間違っていない。って一瞬思ってしまいがちです。これに対し日応上人は神力品の【以要言之。如来一切所有之法。如来一切自在神力。如来一切秘要之蔵。如来一切甚深之事。皆於此経。宣示顕説】の四句の要法で付属された題目は法華文上本果の題目であり、上行菩薩の外用付属題目で、内証付属の本因妙の題目にあらず。と破折しています。日蓮大聖人が『観心本尊抄』で、「在世の本門と末法の始は一同に純円なり但し彼は脱此れは種なり彼は一品二半此れは但題目の五字なり。」と判釈されているように、神力品の結要付嘱は、すでに説かれた寿量品を中心とした一品二半の法体の付嘱ですから、その義は神力品にあるのでなく一品二半に存します。神力品は単なる付嘱の儀式に過ぎません。日応上人の「上行菩薩に付嘱し給いしは、本果の題目即四句の要法にあらずして、ぞの付嘱の正体は本因下種の題目なる」との御指南の通り、神力品で上行菩薩に付嘱された本果妙の題目の正体は法華文底秘沈の「下種本因妙の題目」なのです。従って、日守や八品派のいう、神力品の結要付嘱の妙法五字が末法衆生が唱える題目であるとの論説は、種脱に迷う邪義に他なりません。ここは非常に迷ってしまいがちな部分ですが、文上・文底をしっかりと立て分けることが重要です。まとめると、上行菩薩とは外用・文上で、神力品の四句の要法で付嘱された法体は本果一番の久遠実成の釈迦の説く「本果妙の題目」。私達、法華講員が唱えるているのは、神力品で付嘱された題目でなく、久遠元初自受用身である御本仏が所持されている、本因妙の南無妙法蓮華経の題目だということを、日応上人は御指南されているのです。
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