創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

種熟脱(寝言丸さんへの回答)

寝言丸さんから下記の質問がありましたので今日はそれに対する回答を書きます。(太字は寝言丸さんの質問)

★疑問なのは、久遠元初の時、全ては妙法であり仏法と言うのはよく分かるのですが、それならなぜインドの釈尊は五時八教亦八万法蔵の教えを説いたのでしょう?久遠元初から今の末法までずっと南無妙法蓮華經なら仏教混乱雑乱など起こらなかったのに、と。方便とは言え、正法時代の人達ですし。機根は優れていたはずです。

とのことですが、この質問の中にすでに今回に答えは書いてあります。すなわち【正法時代の人達ですし。機根は優れていたはずです】の部分です。【衆生の機根】の違いですね。種・熟・脱を三益といいますが釈迦在世から正像2000年は「脱益」です。「脱」ということはどこかで「下種」があるのですが、法華経迹門では三千塵点劫に大通智勝仏とその王子たちにより下種が行われたことが説かれていますが本門に入ると五百塵点劫の久遠の釈尊に下種を受けたことが明かされます。これを久遠下種といいます。この久遠下種から法華経本門に至るまでの期間が「熟」でありこの長い期間が歴劫修行と呼ばれる期間です。

◆久種を以て下種と為し大通前四味迹門を熟と為して本門に至って等妙に登らしむ(観心本尊抄)

そしてこの久遠の下種を受けた衆生「本已有善」の衆生といいます。「本已有善」の衆生はとは釈迦仏より下種を受けていますので釈迦仏によって脱益を蒙るわけです。これが釈迦仏法における化導の始終です。釈迦在世の衆生はすでに「南無妙法蓮華経」の下種を五百塵点劫に受けているのでインドの釈迦の役割は衆生に下種することでなく衆生を脱益させることです。なので「南無妙法蓮華経」の下種の法体を説く必要はなく脱益を蒙らせるための「熟益」として八万法蔵を説いたわけです。そしてこの久遠釈迦の化導は像法で終了するわけです。つまり釈迦が久遠下種して衆生は正像2000年の間に全て成仏するわけです。日寛上人の「依義判文抄」に

釈尊の御化導は久遠元初に初まり、正像二千年に終るなり

◇「末法衆生は皆是れ本未有善にして最初下種の直機なり」

とあるように正像2000年が終わり末法に入ると「本已有善」の衆生はいなくなり「本未有善」の衆生ばかりになります。「本未有善」衆生とは釈迦仏から久遠下種を受けていない荒凡夫です。この衆生の機根の違いこそが釈迦仏法と大聖人仏法の違いです。

◆彼は脱、此は種なり。彼は一品二半、此は但題目の五字なり(観心本尊抄)

◆「仏は熟脱の教主、某は下種の法主なり」(本因妙抄)

とあるように、世間の人は大聖人仏法を誤解していますが大聖人は釈迦仏法を否定しているのでありません。釈迦仏法の教えの内容がどうこうというこではなく我々が釈迦仏に縁していないということなのです。だから釈迦仏は末法衆生がいくら望んでも末法衆生の本仏にはならないのです。釈迦の経典には心に響く言葉はたくさんあります。それを読んで心を和ませることは悪い事ではありません。ただ釈迦仏法の修行では成仏(とあえて書きましたが)できないのです。だって釈迦仏から久遠下種をされていないのだから中間の歴劫修行もしていない。それなのに今世で釈迦仏法を信仰したら成仏が叶うと思うのはあまりにも虫のいい話だと思います。また仮に釈迦仏が末法衆生にとっても教主であるならば正像末という立て分けは不要だろうし、末法に隠没してしまうような中途半端な法を説かないでしょう。仏と言うからには自分が下種した衆生は責任をもって「脱益」まで導くはずです。そうしなかったというのは末法衆生は自分に縁のない衆生であることを分かっていたからでしょう。それはさて置き以上のようにインドの釈尊が南無妙法蓮華経を説かなかったのは、すでに下種済み(もう南無妙法蓮華経はとっくに聞かせている)の衆生が相手だからです。逆に末法の今に釈迦仏法を説かないのは下種されていない衆生には釈迦仏は無縁であり意味がないからです(下種されていなのだから熟益・脱益があるわけない)しかし釈迦仏はそんな自分と縁のない末法の本未有善の衆生を鑑みて法華経の文底に下種の法体である妙法を忍ばせて上行菩薩末法衆生の救済を託したのです。それが法華経が再往末法のための経典といわれる所以です。日寛上人のご指南に、

末法衆生は本未有善にして曽つて過去の善苗無し。釈尊遠くこれを鑑みて上行菩薩に妙法五字を付属して始めて成仏の種子を下さしむ(主師親三徳抄)

とある通りです。もちろん上行日蓮は外用の姿でありその本地は久遠元初の自受用報身如来のご本仏日蓮大聖人という事です。

★南無妙法蓮華經が末法専用(失礼な例えは重々承知してます)と言うなら、久遠元初と末法は同じなんですよね?

ならば正法像法時代は何のためにあったのか分からなくなりました。

との件は今書いたように正像時代は釈迦仏によって久遠下種された衆生に脱益を受けさせるための期間です。そして久遠元初即末法と言うのは簡単にいうと久遠元初と末法では、「法体が同じ」「教主が同じ」「衆生の機根が同じ」「教法が同じ」「三益の次第が同じ」だからです。この辺の話はまた長くなるのでいつか機会があればお話しします。

以上で今回のご質問への回答とさせていただきます。


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