創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

久遠元初自受用報身のご質問について

先日久遠元初自受用報身についてのご質問をいただいたので、今日はその話をします。質問の内容は、

「「自受用報身如来」はなぜ報身なのだろう? とふと思いました。無作三身や法報応の三身が説かれているのなら、「自受用三身如来」ではいけないのかな? と。」

とのこと。実はこれって凄く大切なことなんですよね。もう大聖人仏法の基本中の基本なんです。創価民も「久遠元初自受用報身」という言葉は知っているし使うのだけど彼らは「久遠元初自受用報身」について何も分かっていない。いまの創価活動民は基礎教学からして全くインチキ創価教学に毒されています。いづれ創価インチキ基礎教学をぶっ壊す」(N国党風)シリーズでもやりたいくらい滅茶苦茶なのが今の創価インチキ教学です。それはさて置き本題に入ります。基本的には「自受用三身如来」という表現は正しい。ただ「自受用身」は法華文上の「自受用身」と大聖人とを明確に区別する意味で「久遠元初」をつけて「久遠元初自受用身」としないといけない。この「久遠元初」というのは結構重要なワードなんです。

さて、三身のなかでなんで「報身」なのか?ということだけど三身というのは、仏の身(体)のことで法身・報身・応身の3つのことでこの三身は総じていえば差別はないが天台法華文句に

▽この品の詮量は通じて三身を明かす。もし別意に従はば正しく報身に在り。何を以ての故に、義便に文会す。義便とは、報身の智慧は上に冥し下に契して三身宛足す。故に義便と言う。(中略)、正意はこれ報身仏の功徳を論ずるなり

と書かれている。要約すると「如来三身に通ずるけれども、別して言えば正しく報身である。その理由は報身の智は上は理たる法身に通じ下は衆生を利益する応身に通じる」という事なんだけど、ここで三身を分かりやすく説明すると、「法身」とは「普遍真如の理」です。創価民がいうところの「宇宙の法則」ってヤツです。「応身」とは衆生を救済する「慈悲」です。そして「報身」とは仏の「智慧」です。さてそれを踏まえて考えてみると、法身である「理」(宇宙の法則)の中には智慧も慈悲も存在しません。仮に存在したとしてもそれは「理」ですから実際には存在しないに等しいわけです。また「応身」である「慈悲」は必ずしもそこに「法理」や「仏智」が存在するわけではありません。「慈悲」にも種類があり、仏菩薩の衆生救済の慈悲は「大慈悲」と呼べますが、大慈悲ではない世間法上の慈悲も存在します。というか基本我々凡夫の慈悲は「大慈悲」ではないのです。そもそもが「慈悲」といってもそこに「智慧」がなければ慈悲もまた単なる観念(理)でしかないのです。「智慧」があってこそ「慈悲」は事の上で活かされるわけですから。

このことから分かるように、「法身」「応身」には法体である事の一念三千即南無妙法蓮華経は存在しておらずこの法体はどこに存在するのかというと「報身」であるご本仏大聖人の「智慧」の中に存在するのであって、この「報身」を離れて南無妙法蓮華経は事としてどこにも存在しないわけです。「三身即一身」の一身とはご本仏の一身に他なりません。それ故に日蓮大聖人の本地を「久遠元初自受用報身」と呼ぶのであり、ご本仏大聖人を「久遠元初自受用報身如来」と呼ぶわけです。。創価活動民は南無妙法蓮華経は宇宙の法則などと寝とぼけたことをいうけど、それは「理」として宇宙に遍満しているかもしれないがあくまでもそれは「法身」に則した言い回しであって「理」としての存在でしかない。これを是とするならば創価民は大聖人の本地を「久遠元初自受用法身如来」と呼ばべきでそれでは全く真言大日如来と変わらなくなってしまうわけです。もう一度書くけど大聖人の本地はあくまでも「久遠元初自受用報身」なのです。「南無妙法蓮華経」はご本仏の智慧の中にしか存在しないが故に南無妙法蓮華経は仏身なのです。その日蓮大聖人=久遠元初自受用報身如来大慈悲によって末法万年の一切衆生に与えたもうたのが本門戒壇の大御本尊なのです。ですから久遠元初自受用報身如来と言えばそれは本門戒壇の大御本尊のことなのです。いいですか?凡夫の智慧の中に南無妙法蓮華経なんて存在しないのです。凡夫が本仏などというのは全くの戯論なのです。我々凡夫が成仏するにはこの久遠元初自受用報身如来の当体である戒壇の大御本尊を信受する以外にありません。大御本尊を受持しない創価民たちに「事」の上で仏界が涌現するこは永遠ありませんね。「久遠元初自受用報身」の意味。題目をあげる意味。そうしたことをよく学び正しい信心をしたいものです。


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