◆日蓮仏法をこころみるに道理と証文とにはすぎず、又道理証文よりも現証にはすぎず(三三蔵祈雨事)
との御聖訓にあるように、「文証」「理証」「現証」の【三証】は仏法の高低浅深を判断するうえで大切な要素です。上記の御文をあたかも文理よりも現証の方が上位あるかのことぐ言う創価・顕正民がいますがそれは間違いで【文理現】の三証が全て揃っていいるのが大聖人の仏法です。逆に言えばどれかひとつが欠けてしまえそれは大聖人の仏法とは言えないということなります。現証とは言いかえるといわゆる体験談です。戦後から昭和にかけてはこの体験談が折伏弘教に大いなる結果をもたらせましたがそうした信仰体験談も時代とともに少なくなっています。戦後から高度成長期よりも人々は豊かになって昔のようなに目に見えるような苦悩が減ったからではないかと思っています。中には奇跡と思われるように凄い体験を持っている人も大勢いますがその体験と自分がリンクしない人が多数でしょう。ですから今の時代は折伏や育成というものも昔と違い体験を聞かせるという方法だけでは難しいと思います。ですから私は【三証】どれも大切だけど折伏・破折・育成において優先するべきは「理証」であると思っています。「信心は理屈じゃない」という意見も十分理解していますがそれはすでに一人前の信仰をしている人の言葉です。まだ信仰をしていない人や入信してても信心が出来ていない人とのコンセンセスを得られるのは「文証」でも「現証」でもなく「理証」なんです。人は納得しなければ話も聞きませんし行動もしません。そして人を納得させるのは理論です。創価民の話がコンセンサスを得られないのは創価の主張する理論が道理に合っていないからです。例えば本尊ひとつとっても戒壇大御本尊様を受持しないといい正宗の血脈を否定しながら、日蓮正宗の法主が戒壇大御本尊様を書写したものを本尊に据えている。このことの正統性を論証しようとしても無理がある。不条理なことを主張する人を人間は信用しませんから折伏・弘教もできないわけです。「何故そうなのか?」ということを理論的に説明できなければ相手は納得しません。「理証」というととかく「文証」「現証」よりも軽く思われ扱われがちですが、私は相手を説得し納得を得るために一番重要なのは「理証」だと思っています。「聞法下種」が折伏ですから理論武装は敬遠されがちですが大切なことだ思います。因みに私自身が大聖人仏法を信仰している大きな理由は大聖人仏法のロジックには疑義を挟むところがなく納得できるからです。
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