当世は世みだれて民の力よわし。いとまなき時なれども、心ざしのゆくところ、山中の法華経へ、もうそうがたかんなをおくらせ給う。福田によきたねを下ろさせ給うか。なみだもとどまらず。
墨田区の【スットコドッコイ動画】が早速、野間義久隅田総区長の申請で削除された。野間よ、著作権申し立てってなんだよ。もっとも今さら動画削除したところでMP3に複写している人も大勢いるし文字起こしした人もいるし遅かりし由良之助である。墨田区では犯人探しに躍起になっているだろうが、気を取り直して座談御書『衆生身心御書』の「創価教学じゃない御書講義」を始めるとする。池田大作はこの御文の「当世は世みだれて民の力よわし」を切文して「民の力が弱ければ、時代の危機を乗り越えることはできない。仏法の人間主義の大哲理を根幹にこの「民の力」を限りなく強め、人類史の戦乱と不幸の流転を大転換しているのが学会である」(2003.8.15スピーチ)的な指導を良くしていたが、本抄全体の趣旨から外れた見当はずれの池田切文指導で嘲笑してしまうが、座談会では一応は池田インチキ指導を引用しておけば御書の趣旨とは全然違ってもカッコがつくだろう。さて以前も11月の座談御書に本抄を採用したがそれには理由がある。本抄は財務を煽るのに打ってつけの御書だからだ。本文の通釈は「今の世は乱れて民の生活も楽でない。それも暇もない時節に、日蓮の身を案じて身延の山中の法華経へ、孟宗の筍を送られたのは、福田にすばらしい善根の種を蒔かれたのか。厚い志に涙もとどまらないのである。」である。つまり「今は不景気で生活も楽ではないだろうし年末で色々と忙しいしお金も必要だろうが忘れずに財務しろよ!」っていのが本抄の創価教学的会通である。選挙支援を自腹で行ったと思ったら直ぐに財務である。収奪地獄とはこのことだ。しかし本文の前段に「まことならぬことを供養すれば、大悪とはなれども善とならず」との御金言があるように創価に財務などすれば大悪となっても善にはならない。本文で大聖人が「福田によきたねを下ろさせ給うか」と言われている「福田」とは供養することにより福徳を生ずる対象のことで、三福田・八福田などがある。三福田とは、敬田(三宝)・恩田(父母)・悲田(貧苦者)または報恩福田(父母)・功徳福田(三宝)・貧窮福田(貧苦者)のことでこれらの対象(福田)に供養するのが「良き種を福田に撒く」ということだ。「心おろかに、すこしきの物なれども、まことの人に供養すればこう大なり」とは正しい三宝に供養すれば少しの供養でも功徳は大きいという事である。翻って見れば創価学会は福田に全く該当しない。創価は父母でも貧苦者でもない。むしろ創価員の方が貧苦者だ。そして創価は三宝ではない。創価学会仏とか僧宝創価学会とか言っているが全部自己申告で、実際には創価学会仏・僧宝創価学会も経典にも御書にも書いていないイカサマ。自分達を僧宝と定義することで会員に財務には功徳があると思わせるレトリックである。また創価の法宝の南無妙法蓮華経は宇宙の法則だから金銭等の財施は不要である。つまり創価の財務は「まことならぬことを供養」していることに他ならない。換言すれば「まことならぬ創価に金銭を騙し取られている」だけである。それでも財務に功徳があると思うのは勝手だが文証・理証のない事を信じるのは大聖人仏法の信仰者ではないし世間的に見てもただのバカである。そんなバカを騙して私腹を肥やす貧困ビジネスが創価である。供養して功徳が積める福田は御本仏の色心二法・三宝一体の当体である本門戒壇の大御本尊以外にない。創価MC会員は日蓮正宗の御供養を「まことならぬことを供養」していると洗脳されているだろうが、法華講員は寺院や御僧侶に供養しているのでなく戒壇大御本尊様に供養しているのである。御僧侶はその御供養の取り次ぎでしかない。もし御僧侶が御本尊への供養を不正に使えばそれはその御僧侶が罪業を積むだけであり供養した信徒の功徳は無くならない。法華講の御供養が謗法への布施という創価員は戒壇大御本尊のことを謗法と言っているのと同じでなのだから発言には気を付けた方がいい。ここが創価財務と法華講の御供養の違うところで、創価財務はそもそもが謗法への布施であるから罪業しか積まない。創価員はそろそろ賢くなって創価に金銭や時間を搾取される人生にピリオドを打った方が、現世安穏・後生善処だぞ。
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