但し御信心によるべし、つるぎなんどもすすまざる人のためには用る事なし、法華経の剣は信心のけなげなる人こそ用る事なれ鬼にかなぼうたるべし
今月の座談御書は、当ブログで2度目の登場となる『経王殿御返事』の一節です。今回は【けなげな信心】について書きます。創価では【けなげな信心】を「勇気」と訳すことが多くおそらく座談会でも「勇気の信心」という講義を聞かされることでしょう。なにせ、創価活動は「選挙」といい「新聞啓蒙」といい勇気を出さないとできない事ばかり。なかには「学会宣言」すら勇気がないとできないとか。「勇気の対話」とか笑っちゃいますよね。勇気出さないと他人と対話もできないんですか?それは病気かもしれないので心療内科を受診した方がいいかもしれません(笑)。創価は世間的に信仰とは思えない活動をしている教団で、友人・知人・世間の人々に奇異に思われてしまう事を創価員本人が知っているからこそ勇気を出さないと学会活動ができないのでしょうね。だから「健気=勇気」という御書講義になるわけです。確かに「健気」というのは「勇敢」という意味もあるし、他の御書にも◆あへて臆病にては叶うべからず候などと書いてありますが、大聖人の御指南されている「けなげな信心」とは、「勇気の信心」ではなく「一途な信心」のことです。「臆病」とは「不信」でありそれを払拭するのは、勇気ではなく、一途な信心なのです。創価インスタント勤行でも読んでいる寿量品・自我偈に、【質直意柔軟・一心欲見仏・不自惜身命】との文は大聖人仏法の信心の基本であり、これが「けなげな信心」ということなのです。即ち素直に純真な心で(質直意柔軟)一途に御本仏に会いたいと願い(一心欲見仏)時間を惜しまず自行化他の題目を上げていく(不自惜身命)という健気な信心をした時に、御本尊と自分が境智冥合して、自身の心に御本仏の仏力・法力が現れる(時我及衆僧・倶出霊鷲山)。それによって祈りが叶うのです。そもそも勇気を出さないと出てこない信仰心など信心とはいえません。逆に言えば勇気を振り絞らない続けられない学会活動は大聖人の仏法ではないです。さて、今回はと御文の次下の、【日蓮がたましいをすみにそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給え】の部分をそっくりカットしています。当該御文はこの部分が結論の部分で重要な所なのですがそっくりカット。ここが創価切文インチキ教学の真骨頂です。当該御文の【剣】のことを【御本尊】と創価も訳すでしょうが、問題はその御本尊がどのような御本尊なのかという事なのです。当該御文で【剣】といわれているのは、日蓮大聖人の魂(心法)を書き写した御本尊のことなのです。【魂(心法)を書き写す】というのが、「開眼」という事なのです。すなわち、「開眼」がなければ御本尊として成立しないのです。創価は御本尊に開眼は不要などとイキってますが、確かに大聖人の御真筆であれば開眼不要でしょう。でも書写本尊はそのままだと大聖人の魂が入っていないので本尊として成立しないのです。では大聖人滅後に大聖人の魂を書き写せるお方は誰かと言えば唯受一人血脈相承を受けた日興上人を上首とする歴代法主上人以外にいないのです。ですから唯受一人血脈と大聖人の御当体である戒壇大御本尊を否定し、剰え正宗の御本尊をくねすとった創価本尊などは、段ボールで作った模擬刀のようなものです。そんな模擬刀を勇気をもって振るっても謗法という名のケガを負うだけでいいことなどひとつもありません。「開眼」については色々と法門・法義はありますが、創価のレプリカ本尊には、いつ・誰が・どうやって、大聖人の魂を書き写したんですか?ただ「開眼不要」とだけ主張して、その理由を法門の上から説明しない創価の連中に騙されて、レプリカ本尊に題目を唱え、勇気を出した学会活動した挙句に嫌われるという創価民さんが哀れでなりません。素直に純粋な心で一途に戒壇大御本尊にお会いしたいと願う。その人を「信心のけなげなる人」と呼ぶのです。創価活動民は、「信心の穢れたる人」なのです。要するに謗法者ということです。
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創価教学じゃない御書講義(29年度3月座談会御書・経王殿御返事) - 創価ダメだしブログ
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