とにかくに法華経に身をまかせ信ぜさせ給へ、殿一人にかぎるべからず信心をすすめ給いて過去の父母等をすくわせ給へ。日蓮生れし時よりいまに一日片時もこころやすき事はなし、此の法華経の題目を弘めんと思うばかりなり
4月の座談会御書は「上野殿御返事」で別名「刀杖難事」と言わる御書です。不軽菩薩の受けなかった大聖人の受けた「刀の難」というのは小松原の法難と竜ノ口の法難のことだと冒頭に書かれている御書で今回の御文は後半に書かている御文です。まぁこの御文も創価では過去に何度も取り上げていて相変わらず創価のやる気のなさを感じます。では今回の御文の講義を始めます。まず前半部分の
◆とにかくに法華経に身をまかせ信ぜさせ給へ、殿一人にかぎるべからず信心をすすめ給いて過去の父母等をすくわせ給へ。
ですが、「法華経に身を任せて」云々は自行、「殿一人に乃至救わせたまえ」は化他行。すなわち自行化他の信心を勧めらています。自行の部分である【とにかくに法華経に身をまかせ信ぜさせ給へ】の御文のうち【法華経】とは法体であり「仏力・法力」であり【身を任せ】とは行力、【信じさせ給え】とは信力で自行における四力冥合の姿を現しています。次の【信心をすすめ給いて過去の父母等をすくわせ給へ】の部分ですが一応は別して上野殿の過去世の父母のことですが過去世の父母とは再往総じて言えば一切衆生のことです。
◆六道四生の一切衆生は皆父母なり孝養おへざりしかば仏にならせ給はず、今法華経と申すは一切衆生を仏になす秘術まします御経なり(法蓮抄)
生命は無始無終ですから我々の過去を辿っていけば無量の一切衆生は全てが自身の過去の父母となります。今世では赤の他人の関係かもしれないけど無量の過去を遡れば全ての人は自身の父母であったと言ってもいいわけですね。故に折伏弘教をするということは過去の父母を救うことに等しいというわけです。創価民は破折するのもまた過去世の父母を救うことに通じます。ここに折伏・弘教を実践するひとつの意義があります。後半の御文には広めるべき法体が書かれています。
◆日蓮生れし時よりいまに一日片時もこころやすき事はなし、此の法華経の題目を弘めんと思うばかりなり
この御文のポイントは【此の法華経の題目】です。「此の法華経の題目」とは「どの法華経の題目」なのかというと、文上法華経の題目ではなく、文底秘沈の法華経の題目即南無妙法蓮華経の法体です。所謂修行としての「題目(唱題)」ではなく法体としての「法華経の題目」です。なぜかといえば【日蓮生れし時より】と言われているように大聖人が鎌倉時代に応身如来として出生して来た時から所持していた「法華経の題目」なのですから「口唱唱題」のことではなく法体としての題目以外に他にないわけです。そして大聖人が出生時から所持していた「法華経の題目」とは具体的に言えば、
◆戒定慧の三学は寿量品の事の三大秘法是れなり、日蓮慥に霊山に於て面授口決せしなり、本尊とは法華経の行者の一身の当体なり(御義口伝巻下)
人法一箇の本尊です。本尊とは日蓮大聖人の色心二法に他ならずその体は一大秘法である大聖人の出世の本懐の弘安二年の本門戒壇大本尊なのです。つまり今回の御文の趣旨とは、とにかく「大御本尊」を信じて自行化他の題目を上げていきなさい。ということです。「祈祷経送状」に
◆ 其れに付いても法華経の行者は信心に退転無く身に詐親無く一切法華経に其の身を任せて金言の如く修行せば慥に後生は申すに及ばず今生も息災延命にして勝妙の大果報を得広宣流布大願をも成就す可きなり。
と今回の御文と同趣旨の御文がありますが大御本尊に南無(身を任せる)しなさい。言い換えれば大聖人にお任せするというのが大聖人仏法なのです。創価民達はこの御文の「日蓮生れし時よりいまに一日片時もこころやすき事はなし」の文を「間断なき闘争」とかいっちゃって学会活動をやらせようと何かと屁理屈をこねるけど、大聖人の一期の弘法の根本である大御本尊を創価のカラコピ掛け軸と同等などと貶めた挙句に大御本尊を捨てたわけです。そんな謗法団体の活動は大聖人仏法ではない。大聖人仏法ではないから広宣流布でもないどころか大聖人を否定する魔の所業です。大聖人仏法を守るというのは創価に供養することではなく大御本尊にご供養することです。大聖人仏法を広めるというのは公明党を支援することではなく大御本尊を流布するということです。創価にいたらそれは不可能なのです。大聖人仏法を信仰したい学会員さんはコロナで会合等もないでしょうからこの機会に大聖人仏法とは何たるかを思索してみてください。学会活動を止めてちゃんと学び考えれば大御本尊を捨てた創価に大聖人仏法など微塵もないことがわかるはずです。創価教学に騙されてはいけません。