創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

創価教学じゃない御書講義(30年度12月座談会御書・米穀御書)

同じ米穀なれども謗法の者をやしなうは仏種をたつ命をついで弥弥強盛の敵人となる、

又命をたすけて終に法華経を引き入るべき故か、

又法華の行者をやしなうは慈悲の中の大慈悲の米穀なるべし、一切衆生を利益するなればなり

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今年最後の座談会御書は、「米穀御書」です。学会版御書全集では「高橋殿御返事」となってますが

高橋六郎入道宛てではなく、南条時光に宛てた御書であることが有力ということで正宗版では「米穀御書」という題号です。

断簡(お手紙の一部)でとても短い御書ですが、

「其の国の仏法は貴辺にまかせたてまつり候ぞ」という有名な一節がある御書です。

今回の拝読箇所は財務を意識した12月らしい部分ですな。

聖教新聞の解説にも「御供養の精神 」なんてことが書いてあります。

いやいや、創価の財務は会費・寄付の類であって「ご供養」ではないのに

こうやって御書を利用して毎年会員を騙して金を巻き上げる。

振り込め詐欺とは創価の財務の事ですな。

そもそも、正宗に対して「こんなに供養してやった」「いままでして来た供養を返せ」

なんて言っている創価の連中が「御供養の精神」を騙るなんてちゃんちゃら可笑しい。

全く一体どの口が「御供養の精神」なんて言うのかとあきれ返ります。

だから創価の財務は、「会費」扱いで丁度いいのです。「ご供養」なんて言ってはいけません。

だいたいから「ご供養」で、一口(ひとくち)なんていう単位をきいたことがない。

一口という単位を使うのは「寄付」であって「供養」ではないと思いませんか?

さてそれはさておき、今回の御文のポイントとは「謗法の者」と「法華経の行者」ですね。

どちらもやると長くなるので「法華経の行者」についてをメインに書きます。

創価の財務で功徳が出る。という主張は財務は会費ではなく供養であるという考えに立脚しています。

そしてその思考をなさせているのは、自分達や創価が「法華経の行者である」という邪義です。

いつも書きますけど、こうした邪義は全く総別の立てわけができていない創価流の「糞味噌教学」です。

◆糞を集めて栴檀となせども焼く時は但糞の香なり(報恩抄)

コレが創価教学です。臭くてたまらんのですが、便所にずっといるカツドウカは麻痺していて

こんなにも「臭い」創価教学を「いいかほり」と思ってしまうのですね。

いいですか?「法華経の行者」とは日蓮大聖人ただお一人なのです。

日蓮は日本第一の法華経の行者なりすでに勧持品の二十行の偈の文は日本国の中には日蓮一人よめり(別当御房御返事)

日蓮は日本第一の法華経の行者なる事あえて疑ひなし、これをもつてすいせよ漢土月支にも一閻浮提の内にも肩をならぶる者は有るべからず。(撰時抄)

このように大聖人様お一人が「法華経の行者」なのです。

何人たりとも大聖人様に肩を並べることもできない故にご本仏なのです。

大作センセをいくら「栴檀」と言ってみてみても、「糞」は「糞」でしかありません。

いいですか?ここが大聖人仏法の基本中の基本ですよ。

そして、「法華経の行者」の実態とは何かというと、

◆されば無作の三身とは末法法華経の行者なり無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり、(御義口伝巻下)

◆本尊とは法華経の行者の一身の当体なり云云。(御義口伝巻下)

との御文に明らかなように、妙法七字であり御本尊のことです。

そしてこの御本尊とは一大秘法の戒壇大御本尊なのです。

なぜなら今回の御文には

◆一切衆生を利益するなればなり

とあります。一切衆生を利益する御本尊とは「一閻浮提総与」の大御本尊以外にないからです。

つまり、いつも言うように戒壇大御本尊は日蓮大聖人であり法華経の行者なのです。

ここが根本なのです。その上で総じていうと(広げて解釈すると)

◆貴辺日蓮にしたがひて法華経の行者として諸人にかたり給ふ(四条金吾殿御返事)

等の御文にあるように大御本尊を信じて信行に励む弟子旦那もまた「法華経の行者」となるわけです。

上記の御文で「日蓮にしたがひて」とは、大聖人様の色心二法である戒壇大御本尊に信を取る人のことです。

そして「謗法の人」とは、

◆不信とは謗法の者なり(顕謗法抄)

◆正法を人に捨てさせるが謗法にてあるなり(顕謗法抄)

などの御文にあるように、大御本尊に不信を抱き大御本尊を捨てるだけならず他人にも大御本尊への信を捨てさせる

創価学会執行部とその手先となっている、バリカツ・創価幹部のことです。

今回の御文と全く同じ内容が書いてあるの御文があります。

◆設いこうをいたせどもまことならぬ事を供養すれば大悪とはなれども善とならず、

設い心をろかにすこしきの物なれどもまことの人に供養すればこう大なり(衆生身心御書)

この御文で「まことならぬ事」とは、財務のみならず全ての学会活動、さらには創価の勤行・創価本尊への唱題です。

つまり創価での全ての活動は「まことならぬ事」=謗法への供養です。

ですから、やればやるほど善にはならず「大悪」となっていくわけです。

逆に創価でも大御本尊に信を取っているのならば、功徳はあります。

(とはいっても早めに創価から離れることに越したことはありません)

おさらいします。根本の唯一無二の法華経の行者である大聖人様の当体である戒壇大御本尊を捨てる人間を

法華経の行者」などといわない。

このことが分かれば創価が謗法であることが分かる。

それが分かればいかなる名目のいかなる活動も謗法への供養だと知ることができる。

それを知れば創価の「大聖人仏法詐欺」には騙されなくなります。

財務がただの「会費」だとしても「謗法への供養」となるのでご注意ください。

そもそも、学会員が法華経の行者ならば供養を受ける側であって払う側なのはおかしいでしょ?

同じ法華経の行者なのに、払う人ともらう人が存在するなんて普通にオカシイですよね。


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