創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

日興遺誡置文の研鑽⑤

今回のご遺誡は大聖人仏法の法門法義の正しい学び方関連のご指南になります。

一、義道の落居無くして天台の学文す可からざる事。

「義道」は大聖人仏法の教義の筋道の事で「落居」とは完成という意味で要するに大聖人仏法の法門法義をマスターしていないのに天台教学を学んではいけない。という意味です。何故かというと大聖人仏法を理解していないと天台教学との区別を付けることができないからです。これは天台教学に限らずその他の仏教の経論等も含みます。私は3年ほど御書から離れ様々な仏教関連の経論を研鑽した経験がありますが大聖人の仏法から離れてこれをやるのはおススメできません。理由は色々ありますが基本釈迦仏法とは天台も含め【法】中心の言説ですから肝心な【仏】から離れてしまいます。読んでで面白いのですが結局得るものはありません。やはりまずは大聖人仏法の法門法義をしっかりと研鑽した上でないと逆に謗法へと向かう要因になります。創価民が池田指導や創価教学に騙されるのも義道の落居無くして創価教学・池田スピーチを学ぶからです。

一、当門流に於ては御書を心肝に染め極理を師伝して若し間有らば台家を聞く可き事。

「義道の落居」をする為には「御書」を心肝に染めること。そして「御書を心肝に染める」ためには極理を師伝しなさい。というご遺誡です。大聖人仏法・日興門流の教学研鑽のキモがここです。大聖人仏法の法門法義はあくまでも「タテ」に学んでいくのであって在家同士が「ヨコ」に学ぶものではありません。◆此の経は相伝に有らざれば知り難し(一代聖教大意)との御聖訓にもあるように唯授一人血脈相承の師から学んでいく事が「御書を心肝に染める」すなわち御書を正しく読むことにつながるからです。創価民はこの「極理師伝」を否定しますが池田創価創価民は日蓮大聖人をご本仏であると言っています。「日蓮は本仏である」と御書には書いてありません。それにも関わらず彼らが大聖人をご本仏としているのは一体何か根拠なのかというと大聖人をご本仏とする宗派は日蓮正宗しかないのですから極理を師伝された日興上人のご指南を仰いでいるからです。つまり「極理師伝」を否定しながら日蓮正宗の教義を用いているというのが創価なのです。またこの御文を池田先生(師)から教えてもらうなどとい莫迦創価民もいますが、「極理を師伝」されていない池田センセに一体何を教わるのか?大聖人直結などというけど大聖人から直接何かを伝授されてもいない。そういった在家同士に極理の師伝なんてありません。大聖人仏法の法門法義はあくまでも御当代猊下をはじめ歴代上人のご指南と、御当代猊下から師伝を受けたご住職などのご僧侶方から学ぶものです。それが御書を心肝に染めることであり義道の落居につながるわけです。

一、論議講説等を好み自余を交ゆ可からざる事。

論議・講説とは、誰かに大聖人仏法の法門法義の話をしたり、創価や顕正達と対論したりすることでいわば折伏です。そうした場面においては「自余」=我見を交えてはいけない。というご遺誡です。つい最近も当ブログで某支部長と対論しましたが彼の引用した文証は「自余を交えた」我見だらけのものでした。まさにこのご遺誡に反したヤカラでした。このご遺誡も前のご遺誡と関連していて「自余を交える」我見になってしまう原因は何故かと言えばやはり「極理師伝」がなく御書を読むからです。ただ御書の御文を引用して自分勝手な我見を述べる行為を「文証を引用する」とはいいませんし、それは大聖人仏法でもなんでもありません。日淳上人は、

◇古来聖祖門下に於て御書を手にすることを知って、極理の師伝を知らずこれを忽がせにするもののみを見る、此れが為に我見に堕して救ふべからざるに至る誠に嘆ずべきである

と明確にご指南されています。まさにこのご指南の通りです。「極理の師伝」なくして「義道の落居」はなく「極理の師伝」なければ「自余を交える我見」になります。逆に言えば釈迦仏法をはじめとする仏法が唯受一人面授口決による極理の相伝方法を採用しているのは仏法の混乱を防ぐためなのです。そんなことも理解できずに「弘安二年の大御本尊のことは御書に書いていない」「開眼のことは御書に書いていない」などと言っている創価民は仏法の基本すらわかっていない仏法者を名乗るのも恥かしい人達です。

「極理師伝」が仏法の基本なのですから「一大秘法」や「開眼」の事をいち在家信徒へ手紙で書いて送るわけなのです。ともあれ私達も御書を読んで色々な事を想うでしょうが、自分が御書を読んで思ったことが本当に正しいかどうか確認する意味でもご歴代上人のご指南を読み聞きする。ご住職に質問する。ということは重要なことですし、その確認をする前に他人に向かって法門法義を語るのは早計だと思います。私も当ブログで法門法義に関する記事を書く時にはその辺を確認します。(違うなと思ったら指摘してください)最後に天台教学の件ですが、大聖人仏法を学ぶにあたり天台教学は欠かせない基礎教学であることは事実ですので、大聖人の仏法を学びながら「もし時間が有れば台家(天台教学)」も学ぶとより大聖人の仏法が理解できるようになります。まぁ実際なかなか台家まで学ぶ余裕はないんですけどね(笑)

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